[[index.html|唐鏡]] 第三 漢高祖より景帝にいたる ====== 10 漢 呂后 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami3-09|<>]] 第三の主をは呂后((呂雉))と申す。恵帝((劉盈))失せ給ひて、后の腹に御子なし。後宮の美人の子を取りて皇帝とし給ふ。年いとけなければとて、呂后、朝(てう)にのぞみて政(まつりごと)をし給ふ。 元年甲寅の年なり。兄((底本「コノカミ」と読み仮名。))の子ども四人を王とし、諸呂(しよりよ)六人を列侯とす。今年の秋、桃李花咲きて、春のごとくなり。 四年に少帝にある人申しけるは、「君は皇后((張皇后))の子にてはおはせず。皇后、子生み給はねば、孕みたる真似をして、美人の子を取りて、その母をば殺されにき」と申すに、少帝ののたまはく。「盛り((底本「まかり」。底本の異本注記により訂正。))ならむ折にうらみむ」とのたまふを、太后聞き給ひて、乱をなさんことを怖ぢて、永巷(えいこう)の中に捕へて殺したりつ。 五月に常山王義を立てて帝((少帝弘・劉弘))とし給ふ。太后、天下のことを行ひ給へば、元年とは称せざりき。 八年の春、太后、夢に蒼犬(さうけん)のごときなるもの、わが脇((底本「ワキ/エキ」と読み仮名。))をつかむと見給ふ。占はせらるるに、「趙王如意((劉如意))、祟りをなす」と申せり。太后、腋(わき)を病み給ひて、崩じ給ひぬ。在位八年、御年七十一なり。 呂産・呂禄等、乱((底本「争」と異本注記。))をなししかば、陳平・周勃などこれを誅しき。そのいくさの間に、軍中に命じてののしるけるは、「呂氏のためにせむものは右に袒(かたぬ)ぎ、劉氏のためにせむものは左に袒(かたぬ)げ」と申しければ、軍中みな左にぞ袒(かたぬぎ)ける。諸呂、ことごとく亡ぼされぬ。 もろもろの大臣、あひともに密かにはかりていはく、「少帝及び常山王は、恵帝のまことの御子にあらず。今すでに諸呂を亡ぼしつ。呂后の立て給ひし君をば((「をば」は底本「かは」。底本の異本注記により訂正。))もし人となりて、こと用ゐん時、わがともがらよからじ。しかじ、諸王の賢ならむを君とせむ」と申す。ある人の云はく、「斉の悼恵王((劉肥))は高祖の長子なり。今その適子(てきし)斉王((劉襄))たり。高祖の適長孫なり((「なり」は底本「なりり」。底本の異本注記により一字削除。))。立て参らすべし」と申す。また大臣進み申さく、「呂氏、外家(ぐわいか)の悪しきによりて、宗廟(そうべう)をあやぶめ、功臣を乱れり。今、斉王の母家(ぼか)悪しき人なり。もし斉王を立てば、また呂氏を立てんなり。淮南王((劉長))も母家悪しき人なり。代王(だいわう)((劉恒))は高祖の見(けん)の子なり。もとも長じて、仁孝天下に聞こえたり。太后の家薄氏(はくし)、つつしみ((底本「つつしみ」の「し」にミセケチして「つつらみ」。訂正前の本文を採用する。))よき人なり。頼りなり」とて、すなはちひそかに人をして、代王を呼び奉るに、辞謝(じしや)し給ふ。大臣みな参りて、天子の璽((底本「シルシ」と読み仮名。))を奉て天子とす。孝文皇帝これなり。 [[m_karakagami3-09|<>]] ===== 翻刻 ===== 第三の主をは呂后と申す恵帝うせ給て后の腹に 御子なし後宮(コウキウ)の美人の子をとりて皇帝とし給 ふとしいとけなけれはとて呂后朝(テウ)にのそみて政 をし給ふ元年甲寅のとし也兄(コノカミ)の子とも四人を王 とし諸呂(シヨリヨ)六人を列侯とすことしの秋桃李花さきて 春のことくなり四年に少帝に或(アル)人申けるは君 は皇后の子にてはおはせす皇后子うみ給はねは はらみたるまねをして美人の子を取て其母/s80l・m145 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/80 をはころされにきと申すに少帝ののたまはくま(さイ)か りならむおりにうらみむとのたまふを太后きき 給て乱をなさんことをおちて永巷(エイコウ)の中にとらへて ころしたりつ五月に常山王義をたてて帝と し給ふ太后天下の事をおこなひ給へは元年と は称せさりき八年の春太后夢に蒼犬(サウケン)のことき なる物わか脇(ワキ/エキ)をつかむとみ給ふうらな はせらるるに趙王如意たたりをなすと申せり太 后腋(ワキ)をやみ給て崩給ひぬ在位八年御年七十一也 呂産(リヨサン)呂禄(リヨロク)等乱(争イ)をなししかは陳平(チンヘイ)周勃(シウホツ)なとこれを/s81r・m146 誅しきそのいくさのあいたに軍中に命してのの しりけるは呂氏のためにせむものは右に袒(カタヌキ)劉氏 のためにせむものは左に袒(カタヌケ)と申けれは軍中みな左 にそかたぬきける諸呂悉ほろほされぬもろもろの 大臣相共にひそかにはかりていはく少帝およひ常(シヤウ) 山王(サムワウ)は恵帝のまことの御子にあらす今すてに諸呂を ほろほしつ呂后のたてたまひし君(イニヲ)かはもしひとと なりて事もちゐん時わかともからよからししか し諸王の賢ならむを君とせむと申す或(アル)人の云斉(セイノ) 悼恵王は高祖の長子也今その適(テキ)子斉王たり高/s81l・m147 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/81 祖の適長孫(テキチヤウソム)也り(イニナシ)たてまいらすへしと申す又大臣進 まうさく呂氏(リヨシ)外家(クワイカ)のあしきによりて宗廟(ソウベウ)をあや ふめ功臣をみたれり今斉王の母家(ホカ)あしき人也 もし斉王をたては又呂氏をたてん也淮南王も母 家あしき人也代王(タイワウ)は高祖の見(ケン)の子也もとも長 して仁孝天下にきこえたり太后の家薄氏(ハクシ)つ つらみよき人也たよりなりとてすなはちひそか に人をして代王をよひたてまつるに辞謝(シシヤ)した まふ大臣みなまいりて天子の璽(シルシ)をたてまつ りて天子とす孝文皇帝是也/s82r・m148 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/82