[[index.html|唐鏡]] 第三 漢高祖より景帝にいたる ====== 9 漢 孝恵帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami3-08|<>]] 第二の主をは孝恵帝((劉盈))と申しき高祖((劉邦))の太子なり。丁未(ていび)の年、十六にして位につき給ふ。 御母呂后((呂雉))、きわめたる嫉妬((底本「モノネタミ」と読み仮名。))の人にて、高祖の愛し給ひし戚夫人を恨みて、捕へ((「捕へ」は底本「とちへ」。底本の異本注記により訂正。))給ひ、その子趙王如意((劉如意))を召しにつかはす。御使(つかひ)、三度(みたび)までむなしくぞ帰りける。建平侯周昌といふ人、その使に申しけるは、「趙王をばみまはくり((不明。))奉るべきよし、高祖のたまひき。伝へ聞けば、太后((底本「太公」。内閣文庫本により訂正。))、戚夫人を恨みて、趙王を殺し奉らんとすと聞けば、いかでかやり奉るべき。そのうへになやみ給ふ」と申す。 呂后、なほなほ召しければ、恵帝、あさましく思して、みづから迎へ奉りて、内裏にすゑて、同じやうに起き臥し立ちゐて、御供などもまいりけり。されば、太后殺し奉らむとし給へども、ひまなかりけり。 かかるほどに、ある時に、恵帝また朝(あした)に弓射(ゆみい)に出で給ふに、趙王、年若くして、朝寝(あさい)し給ふを、太后、「よきひまなり」と思ひて、人をして鴆(ちん)((底本「チン/トクノ鳥也」と読み仮名及び注。))を参らす。鴆といふ鳥は蝮(はみ)を食らふゆゑに、その羽を焼きて、酒に入れて飲みつれば、たちどころに死ぬるものなり。 恵帝、帰り給ひて見給ふに、趙王すでにはかなくなりぬ。悲しみの御心、申し尽しがたし。太后、つひに戚夫人の手足を切り、眼を捨て、耳をふすべて、もの言はぬ薬を飲ましめて、厠の中にすゑられて、人彘(じんてい)とぞ名付けられける。恵帝を呼び参らせて見せ給ふに、「戚夫人なり」と思して、御目も当てられず心憂くぞ思しける。御病となりて久しく起き上がり給はず。 二年に楚の元王((劉交))、斉の悼恵王((劉肥))など参り給ふ。恵帝、斉王と太后の御前にて、燕飲(えんいん)し給ふに、恵帝の思しけるは、「斉王は親王なれども、わが兄((底本「コノカミ」と読み仮名。))なり」とて、上(かみ)にすゑて、家人(かじん)の礼のごとくにし給ふ。太后怒りて、二盃(さかづき)の鴆をくみて前に置き、斉王祝ひ事あるべきよし申せば、斉王立ち給ふ。恵帝また立ちて、盃を取りてともに祝ひ事せむとし給ふに、太后怖ぢて、みづから立ちて、恵帝の盃をうちこぼし給ひつ。斉王、怪しみ思ひて、さらに飲まず。いつはり酔(ゑ)ひして出で給ふ。鴆酒なることを知り給ふ。 この御時、春三月に、宜陽(ぎやう)といふ所に血降ることありき。一項(けい)あまりおびたたしくて見えしか。また十月に、桃李(たうり)実なることありき。 七年秋八月に、未央宮(びあうきゆう)にして崩じ給ひぬ。在位七年、御歳二十二なり。太后哭(こく)し給へども、御涙は落ちず。 [[m_karakagami3-08|<>]] ===== 翻刻 ===== 第二の主をは孝恵帝(カウクヱイテイ)と申き高祖の太子なり 丁未(テイビ)のとし十六にして位につき給ふ御母呂后き わめたる嫉妬(モノネタミ)の人にて高祖の愛し給ひし戚夫人 をうらみてとち(イニラ)へたまひその子趙王如意をめしに つかはす御使三たひまてむなしくそかへりけ る建平侯周昌と云人その使に申けるは趙王をは みまはくりたてまつるへきよし高祖のたまひ きつたへきけは太公戚夫人をうらみて趙王をころ したてまつらんとすときけはいかてかやりたて/s78l・m141 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/78 まつるへき其うへになやみ給と申す呂后なをなを めしけれは恵帝あさましくおほしてみつから むかへたてまつりて内裏にすゑておなしやうに おきふしたちゐて御供なともまいりけりされ は太后ころしたてまつらむとし給へともひまな かりけりかかるほとにある時に恵帝またあした に弓射(イ)にいて給ふに趙王としわかくしてあさゐ し給ふを太后よきひまなりとおもひて人をして 鴆(チン/トクノ鳥也)をまいらす鴆ト云ふ鳥は蝮(ハミ)をくらふゆへにそのはね をやきて酒に入てのみつれはたちところに死ぬる/s79r・m142 もの也恵帝かへり給てみ給に趙王すてにはかなく なりぬかなしみの御こころ申つくしかたし太后遂に 戚夫人の手足をきり眼をすて耳をふすへてもの いはぬ薬をのましめて厠の中にすへられて人(ジン) 彘(テイ)とそなつけられける恵帝を呼まいらせてみせ 給に戚夫人なりとおほして御目もあてられす 心うくそおほしける御病となりてひさしくをき あかり給はす二年に楚(ソノ)元(イエン)王斉(ノ)悼恵王(タウクエイワウ)なとまいり給 恵帝斉王と太后の御まへにて燕飲(エンイン)し給ふに恵帝 のおほしけるは斉王は親王なれともわか兄(コノカミ)也/s79l・m143 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/79 とてかみにすへて家人(カシム)の礼(レイ)のことくにし給太后(タイカウ) 怒(イカリ)て二さかつきの鴆をくみてまへにをき斉王いはひ ことあるへきよし申せは斉王たち給恵帝又たち てさかつきを取てともにいはひことせむとし給ふに 太后をちてみつからたちて恵帝のさかつきを うちこほし給つ斉王あやしみおもひてさらに のますいつはり酔して出給ふ鴆酒なることを知 給ふこの御時春三月に宜陽(キヤウ)と云所に血ふる事 ありき一項(ケイ)あまりおひたたしくてみえしか 又十月に桃李(タウリ)実(ミ)なる事ありき七年秋八月/s80r・m144 に未央宮(ヒワウキウ)にして崩(ボウ)し給ぬ在位七年御歳廿二也 太后哭(コク)し給へとも御涙はおちす/s80l・m145 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/80