[[index.html|唐鏡]] 第三 漢高祖より景帝にいたる
====== 8 漢 高祖(8 崩御) ======
===== 校訂本文 =====
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十二年、高祖((劉邦))、黥布(げいふ)を討ち給ふ時、流矢のために当たり給ひぬ。道を行く行く病み給ふことはなはだし。
呂后、良医を迎へて見せしめ給ふ((底本「みをせめ給ふ」。異本注記によると「みせせめ給ふ」。いずれにしても文意が通らないため私案により修正。))。医が申さく、「治し奉りつべし」。高祖ののたまはく、「われ布衣(ほい)をもて、三尺の剣を提げて、天下を取れり。これ天の命(めい)にあらずや。命はすなはち天にあり。扁鵲((へんじやく。底本「ヘムシヤウ」と読み仮名。))といふともしるしあらじ」とて、つひに御療治なし。金五十斤を賜びて、医師(くすし)をば帰しつかはしぬる。
四月甲辰、長楽宮にして崩(ほう)じ給ひぬ。在位十二年、御年五十三なり。
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===== 翻刻 =====
十二年高祖黥布(ケイフ)をうち給時流矢のためにあた
り給ぬみちをゆくゆくやみ給ふ事はなはたし呂后
良医(リヤウイ)をむかへてみを(イニセ)せめ給ふ医か申さく治し
たてまつりつへし高祖ののたまはくわれ布衣
をもて三尺の剱(ケム)を提て天下をとれり是天の命
にあらすや命はすなはち天にあり扁鵲(ヘムシヤウ)といふ共
しるしあらしとて遂に御療治なし金五十
斤(キム)をたひてくすしをはかへしつかはしぬる
四月甲辰長楽宮にして崩(ホウ)し給ぬ在位十二年/s78r・m140
御年五十三なり/s78l・m141
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/78