[[index.html|唐鏡]] 第三 漢高祖より景帝にいたる ====== 5 漢 高祖(5 即位) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami3-04|<>]] 項羽を亡ぼして、世中しづまりぬれは、高祖((劉邦))、皇帝の位につき給ふ。今年乙未ぞ、日本国孝元天皇十五年に当たりし。 諸将ども、おのおの勲功の賞あり。高祖、雒陽(らくやう)の南宮に列侯(れつこう)・諸将どもを召して、酒を賜びてのたまひけるは、「籌(はかりごと)を帷帳(ゐちやう)の中にめぐらして、勝つことを千里の外にさだむるは、われ、子房((張良))にはしかず。国家をしづめて百姓をなで、糧(かて)の道を断たざることは、われ蕭何にはしかず。百万の軍を連ねて、戦ひては必ず勝ち、攻めては必ず取ることは、われ韓信にはしかず。この三人(みたり)の者は、みな人傑(じんけつ)なり。われ、よくこれを用ゐて天下をとるなり」とぞのたまふ。 さればにや、蕭何は戦(いくさ)の功もなし、わづかに文書に携はりたるばかりにて、最前に第一の賞をぞかうぶりける。つひに相国の官になりて、政道をぞたすけ奉りし。 張良は高祖の侍読(じどく)に参りて、大臣の位になりしかば、常に思はく、「三寸の舌をもちて、帝者(ていじや)の師たり。万戸の封をうけて、列侯の位なり。賤き者の極まりすでに足りぬ」とぞ思ひ侍ける。((以下、「玉童とぞなりにける」まで底本なし。底本の異本注記により補う)) 昔、下鄙(かひ)の圯(つちはし)の上にて、老父に遇ひて、一編の書を得たりき((主語は張良。))。その書を見るに、太公((太公望・呂尚))が兵法なり。これを読めば、王者の師たるへしと云へり。この書は素書((黄石公素書))なり。太公の兵法にはあらずと申す説あるにや。兵法こそは、高祖のためにも、項羽を討たるる軍には簡要なれば、素書には軍法の様を説かざるにや。この書を与ふる老父は、「今十三年の後に、われを済北の穀城山の下に見よ。それにあらん黄石はわれなり」とぞ申しける。十三年に当たりて、穀城山にして杲して黄石を見、この石を祭り侍りけり。張良人間の事を捨て赤松子(せきしようし)に随ひて仙を学びけり。つひに東王公の玉童とぞなりにける。((この段落底本なし。底本の異本注記により補う。)) この御時、かやうの賢臣ども多くて、徳政ぞ行なはれける。 御位ののち六年といひしに、高祖、五日に一度(ひとたび)太公((劉太公。高祖の父))に朝覲(てうきん)((底本表記「朝勤」。以下同じ。))し給ふこと家人の父子の礼のごとくなりしを、太公の家司、太公に申していはく、「天に二の日なし、地に二の主なし。今、高祖は子なりといへども、人主なり。太公は父なりといへども、人臣なり。いかが人主を((底本「ト」と異本注記。))して人臣を拝すべき。かくのことくせば威重(いちやう)おこなはれじ」と申せり。 その後、高祖、行幸なりて、朝覲し給ふに、太公、彗(ははき)を取りて、門へ向かへ奉りて、退き行き給ふ。高祖、大いに驚きて、下りて太公を助け給ふ。その時、太公ののたまはく、「帝は人主なり。いかがわれゆゑに天下の法を乱り給ふべき」とのたまふに、高祖、太公をたとひて、太上皇とぞ申し給ひける。 [[m_karakagami3-04|<>]] ===== 翻刻 ===== 項羽をほろほして世中しつまりぬれは高祖皇帝 の位につき給今年乙未そ日本国孝元天皇十五年 にあたりし諸将ともをのをの勲功(クムカウ)の賞あり高祖 雒陽(ラクヤウ)の南宮に列侯(レツコウ)諸将ともをめして酒をたひ てのたまひけるは籌(ハカリコト)を帷帳(ヰチヤウ)の中にめくらし/s74r・m132 て勝(カツ)事を千里の外にさたむるは我(ワレ)子房(シハウ)にはしかす 国家をしつめて百姓をなて糧(カテ)の道をたたさる事は われ蕭何(セウカ)にはしかす百万の軍をつらねてたたかひて はかならすかちせめては必取ことはわれ韓信(カムシム)には しかすこの三たりのものはみな人傑(シンゲツ)なりわれよくこ れをもちゐて天下をとる也とそのたまふされは にや蕭何はいくさの功もなしわつかに文書に携たる はかりにて最前に第一の賞をそかうふりける遂 に相国の官になりて政道をそたすけたてま つりし張良は高祖の侍読(シトク)にまいりて大臣の位/s74l・m133 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/74 になりしかはつねにおもはく三寸の舌をもち て帝者(テイシヤ)の師たり万戸の封(カナウ)をうけて列侯(レツコウ)の位 なり賤(イヤシキ)もののきはまりすてにたりぬとそ おもひ侍ける○此御時かやうの賢臣ともおほく て徳政そおこなはれける御位ののち六年といひしに 高祖五日に一たひ太公に朝勤(テウキン)し給ふ事家人父 子の礼のことくなりしを太公の家司太公に申て いはく天に二の日なし地に二の主なしいま高 祖は子なりといへ共人主なり太公は父なりと いへとも人臣なりいかか人主を(イニト)して人臣を拝 ○イニ昔下鄙(カヒノ)圯(ツチハシノ)上ニテ老 父ニ遇テ一編ノ書 ヲエタリキ其書ヲ 見ニ太公カ兵法也 是ヲ読ハ王者ノ師 タルヘシト云 ヘリ此書 ハ素書也 太公ノ兵 法ニハ非スト 申ス説アルニヤ兵法コソ ハ高祖ノタメニモ項羽 ヲウタルル軍ニハ簡要 ナレハ素書ニハ軍法ノ 様ヲ不説ニヤ此書 ヲ与ル老父ハ今十三 年ノ後ニ我ヲ済北ノ 穀城山ノ下ニミヨ其ニアラン黄石ハ我也トソ申ケル十三年ニ当テ穀城山ニシテ杲シテ黄石ヲ見此石ヲ祭リ侍ケリ張良人間ノ事 ヲ捨赤松子ニ随テ仙ヲ学ヒケリ遂に東王公ノ玉童トソ成ニケル/s75r・m134 すへきかくのことくせは威重(イチヤウ/イキヲモ)おこなはれしと 申せりそののち高祖行幸なりて朝勤し給ふ に太公彗(ハハキ)を取て門へむかへたてまつりてしりそ き行給ふ高祖大に驚ておりて太公をたすけ給 ふその時太公ののたまはく帝は人主なりいかか我 ゆへに天下の法をみたり給へきとの給に高祖太 公をたとひて太上皇とそ申たまひける/s75l・m135 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/75