[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる ====== 29 秦 始皇帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami2-28|<>]] 秦の始皇((始皇帝))は荘襄王(さうじやうわう)の子なり。まことには呂不韋(りよふゐ)の子とかや申しき。正月に生まれ給へるによりて、諱(いみな)をば政とす。蜂隼((蜂准の誤り。鼻が高いこと。底本「蜂」に「ハチノ」、「隼」に「ナゝ」「ハヤフサ」と読み仮名及び注。))、長き目、鷲((底本「シ/ハヤフサ」と読み仮名及び注。))の胸、犲(おほかみ)の声あり。 年十三にして荘襄王失せ給ひぬれば、秦王となり給ふ。今年乙卯年に、日本国孝霊天皇四十四年に当たりし。二十二にして冠して、剣をはき給ふ。 この時に長信侯樛毒((嫪毐(ろうあい)の誤り。以下同じ。底本、「シウドク」もしくは「レウドク」と読み仮名。))、謀叛のことあらはれぬ。咸陽にて戦はしむるに、首を斬れること数百、戦(いくさ)敗れて、樛毒ら逃げぬ。「生き長らへたらむ者には銭百万、殺せらむには五十万を賜ふべし」とぞ示されける。つひに首を斬り、また車裂きにせらるる者もありけり。 この時夏四月、寒くして凍して((「凍えて」の誤りか。))死ぬ者あまた聞こえけり。彗星(けいせい)西方また此方(こなた)に見えて、八十日に及べり。 また、相国呂不韋、樛毒にて見しけり((「見えけり」の誤りか。))といふこと聞こえて免しぬ。そののち呂不韋死ぬ。李斯(りし)といふ人にぞ、政事を仰せ合はせて用ゐられける。 二十年にぞ、燕の太子丹、荊軻(けいか)を使(つかひ)に参らせて、王を刺し((「刺し」は底本「さゑ」。文脈及び『史記』の記述により訂正。))奉らんとせしかども、王、さりとて荊軻を殺して、太子丹が首を斬りつ((「斬りつ」は底本「きれつ」。文脈により訂正。))。 二十八年、封禅((底本「ホウセン/マツルコト也」と読み仮名及び注。))のことありて、泰山にのり給ふ。その樹を感じて、五大夫の爵(しやく)をぞ賜ひし。 また、童男女数千人に物を持たせて、徐福にあひ具して東海へつかはして、蓬莱不死の薬を求めしむ。童男幼女といふは、幼き童また女なり。徐福、海を過ぎて、平原広沢(へいげんくわうたく)といふ所にとどまりぬ。それにて王となりて、あへて都(みやこ)へ帰らず。新羅国と申すはこの所なり。 始皇、斎戒祷祠(さいかいたうし)して、泗水に落ち入りし周の鼎(かなへ)(([[m_karakagami2-17]]参照。))を出ださんとて、数十人を水に入れて求めしむれども、さらに見えず。 二十九年に、博狼沙(はくらうさ)中といふ所にて、盗(ぬすびと)((張良))のために驚かされ給ふ。天下おほいにあなぐり求むれども得ざりき。 三十四年に、丞相李斯申さく、「いにしへに天下散乱してよく一なることなし。諸侯並びに事を起こし、古をみちびきて今を害す。今、皇帝天下を合はせ保ちて一尊なり。わたくしに学びてともに法教((法家の教え))をそしる。令くだると聞きては、すなはちその学(がく)をもちて議す。入りてはすなはち心に謗(そし)り、出ては則(すなは)ち巷(ちまた)に議す。かくのごときことを禁ぜずは、君の威あらじ。請ふ、史官の秦の記にあらざるものをばみな焼かむ。詩書百家のことを隠す者あらば、逓尉(ていゐ)において焼かむ。吏の見知りて申さざらんをば、与同罪令(よどうざいれい)くだりて、三十日までに焼かざらんをば罪せん。医薬・卜筮(ぼくぜい)・種樹(しゆしゆう)の書をば捨てじ。もし法令を学びむと思はんものは、吏をもて師とすべし」と申ししかば、そのままに宣旨なりぬ。 百家の書籍、一巻いかにてか残るべき。孔子の経書どもを壁の中に納め、さまざまにして納め隠しし。このゆゑに全経(ぜんきやう)とは申すなり。 三十五年に阿房宮(あばうきゆう)造らる。おびたたしかりしことなり。今年、儒士四百六十余人を、咸陽にして坑(あな)にせられしこそ心憂かりしことなりしか。 三十七年、始皇、出でて游(いう)し給ふ。左丞相李斯、右丞相去疾(きよしつ)((馮去疾))、少子胡亥(こがい)ら従へり。海に沿ひて西の方、平原津(へいげんしん)といふ所に至りて、病(やまひ)し給ふ。始皇、死を言ふことを憎み給へば、群臣もあへて死のこと申す者なし。 されども、病いよいよまさり給ひければ、璽書(じしよ)を作りて、長子扶蘇(ふそ)に賜ひて、のたまひけるは、「咸陽に会して葬(はう)れ」。この書、封せられて、趙高(てうかう)が所にあり。いまだ使に賜はざるに、始皇、沙丘(さきう)の平台(へいだい)に失せ給ひぬ。天下の変あらんことを怖(お)ぢて、秘して喪(も)((底本「モ/ホロフル」と読み仮名及び注。))を発せず。棺(くわん)をば轀車(をんしや)((轀輬車))の中に乗せたり。食を奉り百官のことを奏すること、もとのごとくにす。宦者(くわんしや)五・六人のほかには、この御事を知れる者なし。 趙高、昔、胡亥に書を教へたるゆゑにや、趙高、丞相李斯とひそかに謀(はか)りて、始皇の扶蘇に賜へる書を焼き捨てて、偽りて丞相李斯が始皇の遺詔(いせう)を受けたるまねをして、胡亥を立てて太子とし、さらに書を作りて、扶蘇には死を賜ひつ。 暑きころにて、轀車臭かりければ、従者の車ごとに、一石の鮑魚(はうぎよ)((底本「ハウキヨ/アハヒクサイモノノコト也」と読み仮名及び注。))を乗せてぞ、その臭きことを乱りし。直道(ちよくだう)より咸陽に至りて、喪(も)を発せしむ。在位三十七年、御年五十なり。太子胡亥、位に就き給ひて、二世皇帝とぞ申しける。 この御時ぞ、伝国璽(でんこくじ)を作られし。蒙恬(もうてん)といふ人、筆をぞ造り始めたりける。 さてもこの御時、天竺の沙門、仏教を持て来たりしを、始皇、信じ給はずして、獄舎に禁ぜられぬ。金剛丈六の人着たりて、獄門を破りて、沙門を出だし給ひぬ(([[:text:k_konjaku:k_konjaku6-1|『今昔物語集』6-1]]・[[:text:yomeiuji:uji195|『宇治拾遺物語』195]]参照。))。 [[m_karakagami2-28|<>]] ===== 翻刻 ===== 秦(シンノ)始皇(シクワウ)は荘襄王(サウシヤウワウ)の子なり実には呂不韋(リヨフヰ)の子とかや申き正 月にむまれ給へるによりて諱(イミナ)をは政とす蜂(ハチノ)隼(ナナ/ハヤフサ)長(ナカキ)目(メ)鷲(シ/ハヤフサ) の胸(ムネ)犲(オホカミノ)声(コヘ)あり年十三にして荘襄王うせ給ぬれは 秦王となりたまふ今年乙卯年に日本国孝霊(カウレイ)天皇 四十四年にあたりし廿二にして冠して釼をはきたまふ この時に長信侯(チヤウシンカウ)樛毒(シウドク)謀叛(ムホン)の事あらはれぬ咸(カン)陽にてたた かはしむるに首をきれる事数百いくさやふれて樛毒等/s51r・m92 にけぬいきなからへたらむものには銭百万ころせらむには 五十万をたまふへしとそしめされける遂に首をきり又 車裂(クルマサキ)にせらるるものもありけり此時夏四月さむくして 凍して死ぬものあまたきこへけり彗星(ケイセイ)西方又此方 にみへて八十日にをよへり又相国呂不韋樛毒にてみえ けりといふこときこえて免しぬそののち呂不韋死ぬ李斯 といふ人にそ政事をおほせあはせてもちゐられける廿年 にそ燕(エン)太子丹荊軻(ケイカ)を使にまいらせて王をさしたてまつ らんとせしかとも王さりとて荊軻(ケイカ)をころして太子丹 か首をきれつ廿八年封禅(ホウセン/マツルコト也)のことありて泰山にのり/s51l・m93 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/51 給ふ其樹を感して五大夫の爵(シヤク)をそたまひし又童男(トウナン) 女(チヨ)数千人にものをもたせて徐福(シヨフク)に相くして東海へつかはし て蓬莱不死の薬をもとめしむ童男幼女といふはおさ なき童又女也徐福海をすきて平原(ヘイケン)広沢(クワウタク)といふ所に ととまりぬそれにて王となりてあへてみやこへかへらす 新羅国と申すはこの所なり始皇斉戒(カイ)祷祠(タウシ)して泗水 におちいりし周の鼎(カナヱ)をいたさんとて数十人を水にいれ てもとめしむれともさらにみえす廿九年に博(ハク)狼沙 中といふ所にて盗(ヌスヒト)のためにおとろかされ給ふ天下大にあな くりもとむれとも得さりき卅四年に丞相(シヤウシヤウ)李斯(リシ)申/s52r・m94 さくいにしへに天下散(サン)乱してよく壹なる事なし諸侯 ならひにことをおこし古をみちひきて今を害す今皇 帝天下をあはせたもちて一尊なりわたくしにまなひて ともに法教をそしる令(レイ)くたるとききてはすなはち其学(カク) をもちて議す入てはすなはち心にそしり出ては則巷(チマタ) に議すかくのことき事を禁せすは君の威あらし請(カウ)史(シ) 官(クワン)の秦の記にあらさるものをは皆やかむ詩書百家 の事をかくすものあらは逓尉(テイヰ)におひてやかむ吏の見し りて申ささらんをは与同罪令(ヨトウサイレイ)くたりて三十日まて にやかさらんをは罪せん医薬(イヤク)卜筮(ホクセイ)種樹(シユシウ)の書をはすて/s52l・m95 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/52 しもし法令をまなひむとおもはんものは吏をもて師と すへしと申しかはそのままに宣旨なりぬ百家の書籍一 巻いかにてかのこるへき孔子の経書ともを壁(カヘ)の中におさめ さまさまにしておさめかくししこの故に全(セン)経とは申なり卅五年 に阿房宮(アハウキウ)つくらるおひたたしかりし事也ことし儒士 四百六十餘人を咸陽にして坑(アナニ)せられしこそ心うかりしこと なりしか卅七年始皇出(イテテ)游(イウ)し給ふ左丞相李斯右丞相去(キヨ) 疾(シツ)少子胡亥(コカイ)等したかへり海にそひて西の方平原津(ヘイケンシン)と いふ所にいたりて病したまふ始皇死をいふことをにくみ 給へは群臣もあへて死の事申すものなしされとも病いよいよ/s53r・m96 まさり給けれは璽書(シシヨ)をつくりて長子扶蘇にたまひてのたま ひけるは咸陽に会して葬(ハウ)れこの書封せられて趙高(テウカウ) かところにありいまた使にたまはさるに始皇沙丘(サキウ)の平臺(ヘイタイ)にうせ 給ぬ天下の変あらんことをおちて秘して喪(モ/ホロフル)を発せす 棺(クワン)をは轀車(ヲンシヤ)の中にのせたり食をたてまつり百官のこと を奏する事もとのことくにす宦者(クワンシヤ)五六人のほかにはこの御事 をしれるものなし趙高(テウカウ)むかし胡亥(コカイ)に書ををしへたるゆ へにや趙高丞相李斯とひそかにはかりて始皇の扶蘇に たまへる書をやきすてていつはりて丞相李斯か始皇の 遺詔(イセウ)をうけたるまねをして胡亥をたてて太子としさら/s53l・m97 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/53 に書をつくりて扶蘇には死をたまひつつあつきころにて 轀(ヲン)車くさかりけれは従者の車ことに一石の鮑魚(ハウキヨ/アハヒクサイモノノコト也)をのせて そそのくさきことをみたりし直道(チヨクタウ)より咸陽にいたりて 喪(モ)を発せしむ在位卅七年御年五十也大子胡亥位につき 給て二世(セイ)皇帝とそ申けるこの御時そ伝国璽(テンコクシ)をつくられし 蒙恬(モウテン)といふ人筆をそ造はしめたりけるさてもこの御時 天竺の沙門仏教を持来しを始皇信したまはすして獄(コク)舎 に禁せられぬ金剛丈六の人きたりて獄門をやふりて沙門 をいたしたまひぬ/s54r・m98 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/54