[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる ====== 24 燕 召公奭 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami2-23|<>]] 燕の召公奭(せき)、燕の国を治めて兆民(てうみん)((底本「ケウミン」と読み仮名。))甚和しけり。郷邑(きやういふ)を巡り行くに棠(たう)の樹((底本「シユ」と読み仮名。))あり。その下にして政事を決し、獄(うつたへ)をことはる。侯伯より庶人に至るまで、その理(ことわり)むなしからずして、職(しよく)を失ふ者なし。 召公卒(う)せて後、民人、召公の政を思ひて甘棠(かんたう)の詩を作る。毛詩((詩経))には、「蔽芾甘棠、勿剪勿伐、召伯所茇。(蔽芾(へいひ)たる甘棠、剪(き)ることなかれ、伐(き)ることなかれ、召伯茇(やど)る所。)」といへり。召公を仁といふべし。「甘棠且思之、況其人乎。(甘棠すら且つこれを思ふ、いはんやその人をや。)」と、太史公((司馬遷))讃めたり。 [[m_karakagami2-23|<>]] ===== 翻刻 ===== 燕召公奭(セキ)燕の国を治て兆民(ケウミン)甚和けり郷邑(キヤウイウ)を巡(メクリ)行に棠(タウノ) 樹(シユ)あり其下にして政事を決し獄(ウタヘ)をことはる侯伯より 庶人に至まて其理むなしからすして職(シヨク)を失(ウシナフ)ものなし 召公卒(ウセ)て後民人召公の政を思て甘棠(カンタウ)の詩を作る毛詩には蔽芾(ヘイヒタル)甘 棠勿(ナカレ)剪(キルコト)勿(ナカレ)伐(キルコト)召伯(セウハク)所(トコロ)茇(ヤトル)と云り召公を仁と謂(イウ)へし甘棠 且思(オモフ)之(ヲ)況其人乎と太史公ほめたり恵王の時鄒衍といふ/s49l・m89 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/49