[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる ====== 14 周 敬王 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami2-13|<>]] 第二十七の主をば敬王と申しき。 この元年にぞ老子は関令尹喜(くわんりやういんき)と西国へ行き給ひし。年八十六と承りき。 この御時、四十一年四月己丑にぞ、孔子また失せ給ひし。年は七十三と承りき。人の語り侍りしは、「七十人の御弟子と筏(いかだ)に乗りて、東海に浮(うか)ばせ給ひしは、日本国へ渡らせ給ひしなり」と申し侍りき。((底本「廿八元王廿九貞定王三十哀王(立三月弟叔襲殺之自立為王/是為思王弟隗又攻殺之)三十一考王隗也卅三安王卅四夷烈王」と異本注記。)) [[m_karakagami2-13|<>]] ===== 翻刻 ===== 第廿七の主をは敬王と申きこの元年にそ老子は関令尹喜(クハンリヤウインキ) と西国へゆき給し年八十六とうけ給き此御時四十一年 四月己丑にそ孔子又うせ給し年は七十三とうけ給き人の かたり侍しは七十人の御弟子といかたにのりて東海にうかはせ 給しは日本国へわたらせ給しなりと申侍き イ廿八元王廿九貞定王三十哀王(立三月弟叔襲殺之自立為王/是為思王弟隗又攻殺之)三十一考王隗也 卅三安王卅四夷烈王/s42l・m75 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/42