[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる ====== 7 周 厲王 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami2-06|<>]] 第十の王をば厲王(れいわう)と申しき。利を好みて、栄夷公といふ者を近付け給ふ。この栄公は、利を専(もつぱら)することを好みて、大難を去らざる者なり。「これを用ゐられば、王室も危ふかるべし」とぞ、人々諫め申しける。されども用ゐさせ給はず。卿士(けいし)として政(まつりごと)を行なはせられければ、あへて申す者なくして、「道路目を以てす」とて、目くばせばかりにてありければ、厲王は、「われ謗(そし)りをやめん」とて喜び給ひけり。 召公((穆公。底本表記「邵公」。))といふ大臣の申されけるは、「民の口をふさぐは、水をふさぐよりもはなはだし。水壅(ふさ)((「壅」は底本「厂+隹+土」に「フサ」と読み仮名。))がれて潰(つゆ)((読み仮名は底本による。))るときは、人を傷(やぶ)ること必ず多し。民もまたかくのごとし」とぞのたまひける。 匹夫(ひつぷ)の、利を専(ほしいまま)するだにも((底本、判読困難。異本注記及び内閣文庫本により訂正。))、なほこれを盗(ぬすびと)と言ふ。王としてこれを行ひたまふとて((「とて」は底本「て」。異本注記により補う。))帰する者少なくなりぬ。つひに群臣あひともにそむきて、厲王を襲ひ奉れば、王は彘(てい)といふ所へまどひ出で給ひぬ。 王の太子((宣王))は、召公が家に隠れ給へり。群臣聞きて、これを囲めり。召公のたまひけるは、「昔、われ王を諫め申ししに、したがひ給はずして、この難におよべり。今、王の太子を殺さば、王われを恨み給はむや」とて、家の子をもちて太子に替へ給へば、太子はまぬかれ給ひぬ。 召公・周公((周定公))二つの大臣、政を行ひ給へば、帰して共和とぞいひける。共和十四年に厲王は彘にて失せ給ひぬ。太子の召公が家にして一年(ひととせ)なり給へるをぞ、二つの大臣、位に即(つ)け給ひし。 [[m_karakagami2-06|<>]] ===== 翻刻 ===== 第十の王をは厲(レイ)王と申き利を好て栄夷公といふものを ちかつけ給この栄公は利を専することを好て大難(ナン)をさら さるものなり是を用られは王室(シツ)もあやうかるへしとそ 人々諫申けるされとももちゐさせたまはす卿士(ケイシ)として政 を行せられけれはあへて申ものなくして道路目を以 すとて目くはせはかりにてありけれは厲王はわれそ しりをやめんとてよろこひ給けり邵公といふ大臣の申 されけるは民の口をふさくは水をふさくよりもはなはたし 水〓(ふさ)かれて潰(ツユル)ときは人を傷(ヤフル)ことかならす多し 民も又かくのことしとその給ける匹夫(ヒツフ)の利(イニノ専)を専(ホシイシ)する/s38r・m66 たにも猶これを盗(ヌスヒト)といふ王として是を行たまふ(トイ)て帰す るものすくなくなりぬ遂に群臣相與(アヒトモ)にそむきて厲王を 襲(ヲソヒ)たてまつれは王は彘(テイ)といふところへまとひ出たまひぬ 王の太子は召(セウ)公か家にかくれ給へり群臣聞てこれを囲(カコ)めり 召公の給けるはむかしわれ王を諫申ししにしたかひ給 はすしてこの難にをよへり今王の太子をころさは王 われをうらみたまはむやとて家子をもちて太子にかへ 給は太子はまぬかれ給ぬ召公周公二の大臣政を行たまへは 帰して共和とそいひける共和十四年に厲王は彘(テイ)にて 失給ぬ大子の召公か家にしてひととせなり給へるをそ二の/s38l・m67 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/38 大臣位に即(ツケ)給し/s39r・m68 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/39