[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる ====== 2 周 武王 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami2-01|<>]] 第一の王をは武王と申しき。文王の次の御子なり。大公望((呂尚))を師とし、周公旦を輔とし給ふ。文王失せ給ひしかば、その木主を作り給ひて、中軍に居給へり。みづからは太子発と称し((底本「称」なし。異本注記により補入。))給ひて、文王の命((「命」は底本「含」。異本注記により訂正。))を受け給ひて、紂を討たんとなり。みづからほしいままならじの御心にや。 このとき伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせい)といふ二人の賢者、馬を扣(おさ)へて、諫めて曰く、「父死たれども、葬(はふ)らずして干戈(かんくわ)に及べり。孝といふべしや。臣なる身にて君を殺さん、仁といふべけんや。大公望、「これは義人なり」とて、追ひやらしめつ。つひに紂を亡ぼして、位に即(つ)き給ひ、さまざまの善政ども行なはる。 世の中静まりにしかば、馬をば華山の陽に放ち、牛を桃林の墟(きよ)に放たれ、兵具((底本「ツハモノノク」と読み仮名。))どもを解き置かれて、「天下にまた用ひべからず」とぞ示されし。伯夷・叔斉は、諫め申ししことを恥ぢて、周の粟をばはまずして、首陽山に入りて蕨を採りて、つひに餓ゑたり。麋鹿(びろく)の出で来たりける。叔斉はこれを害して食はんとするに、鹿去りぬ。伯夷はこれを憂へて死ぬ。 太公望の女(むすめ)邑姜(いうきやう)ぞ、后に参り給ひし。 常にのたまひけるは、「紂は臣億万までありしかども、その心億万なり。予は臣三千なれども、その心一心なり。予に乱臣十人あり。心を同じ、徳に同ず。周公旦・公奭(こうせき)・太公望・畢公(ひつこう)・栄公(えいこう)・大顛(だいてん)・閎夭(くわうよう)・散宜生(さんぎせい)・南宮括(なんきうくわつ)・文王母、十人はこれなり。乱は理なるゆゑに乱臣((底本、「是ハヲサマルト云心也」と注。))とは称す。「心を一つにしては百君にも事(つか)へつべし。心を百にしては一君にも事(つか)ふべからず」といふこと、これよりおこれり。 昔、文王疾(やまひ)し給ふときは、冠(かぶり)・帯を脱(と)かずして養ひ奉り、文王ひとたび飯する時は、ひとたび飯し、再び飯するときは、また再び飯し給ふ。孝行の御心ならびなし。「明王は孝をもて天下を治む」といへり。君も臣も孝を先とすべきなり。 在位七年、御年九十三なり。 [[m_karakagami2-01|<>]] ===== 翻刻 ===== 第一の王をは武王と申き文王の次の御子なり大公望を師 とし周公旦(シウコウタン)を輔とし給文王うせ給しかは其の木主をつくり 給て中軍に居給へり自は大子発(ハツ)と(称イ)し給て文王の 含(命イ)をうけ給て紂をうたんとなりみつからほしいままならしの 御心にやこのとき伯夷(ハクイ)叔斉(シユクセヰ)といふ二人の賢者馬を扣(ヲサヘ)て 諫(イサメ)て曰く父死たれとも葬(ハフラ)すして干戈(カンクワ)に及へり孝と いふへしや臣なる身にて君を殺さん仁といふへけんや 大公望これは義人なりとておいやらしめつ遂に紂を ほろほして位に即(ツキ)給さまさまの善政(セイ)ともをこなはる世 中しつまりにしかは馬をは華山の陽にはなち牛を/s33l・m57 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/33 桃林の墟(キヨ)にはなたれ兵具(ツハモノノク)ともをときをかれて天下にまた 用ひへからすとそしめされし伯夷叔斉は諫め申しこと を恥て周の粟をははますして首陽山に入て蕨をとり て遂に餓え(ウヱ)たり麋(ビ)鹿のいてきたりける叔斉は是を害し て食はんとするに鹿去ぬ伯夷はこれをうれへて死ぬ太公望 の女邑姜そ后にまゐり給し常にのたまひけるは紂は臣 億万(オクマン)まてありしかともその心億万なり予(ヨ)は臣三千なれ とも其心一心なり予(ワレ)に乱臣十人あり心を同じ徳に同す 周公旦公奭(コウセキ)太公望畢公(ヒツコウ)栄(ヱイ)公大顛(タイテン)閎夭(クワウヨウ)散宜生(サンキセイ)南宮括(ナンキウクワツ) 文王母十人はこれ也乱は理なる故に乱(是ハヲサマルト云心也)臣とは称す心を/s34r・m58 一にしては百君にも事つへし心を百にしては一君にも事へから すといふことこれよりおこれり昔し文王疾(ヤマヒ)し給ときは冠(カフリ) 帯(オヒ)を脱(トカ)すして養たてまつり文王壹(ヒトタ)ひ飯する時は壹ひ 飯し再飯するときは亦再ひ飯し給孝行の御 心ならひなし明王は孝をもて天下を治といへり君も臣 も孝を先とすへきなり在位七年御年九十三なり/s34l・m59 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/34