[[index.html|唐鏡]] 第一 伏羲氏より殷の時にいたる ====== 18 殷 紂 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami1-17|<>]] 第三十の主を紂(ちう)と申しき。聞き見給ふことはなはだとく、材力(ざいりよく)人に過ぎて、手つから猛獣を打ち給ふ。国々の賦税(ふぜい)をあつくなして、鹿台(ろくだい)とて、広さ三里、高さ千尺なる蔵を造りて銭を置き満て給ふ。酒を池とし、糟(かす)を丘とし、肉(ししむら)を林として、男女赤裸(あかはだか)にて、その中に楽しみ戯(たはぶ)れて、「長夜の飲」とてひまなかりしかば、百姓恨みをなして、謀叛ことごとく国((底本「国」を消して「背イ」と異本注記。))にそむきけり。 妲己(だつき)((底本「タツキ・ヒシンノ心也。之ハ一世ノ間〓ヲシテ咲也」と読み仮名及び注。〓は判読できない。))と申しける女を愛して、これがおもしろがることのみを行なはれ、政(まつりごと)もこの妲己が申すままなりけり。炮格(はうかく)の刑とて、銅の柱を立て油を塗れり。その下に火をおこして、罪科ある者をばその柱にのぼせらるるに、油すべりて火の中へ落ち入るを、妲己見て笑ひければ、「常に笑はせん」とて、好み行なはれき。 九侯と申す大臣、見目よき娘を后に参らせられたりしが、「淫を好まず」とて殺されき。その父の九侯をば、醢(ししびしほ)にぞせられし。 西伯昌(せいはくしよう)((周の文王))は大臣の位にて、かやうの御政を歎き悲しませ給ひしを、紂、聞きて捕へて、羑里(いうり)((底本表記「牖里」。「イウリ・ロウシヤノ心」と読み仮名及び注。))に籠め置かれき。西伯の臣たち、美女・善馬などを紂に参らせられしかば、喜びて西伯をば免されぬ。 西伯、炮格の刑(つみ)いと無残に思して、洛西の地を奉りて、「この刑をとどめらるべし」と申されしかば、とどめられにき。 「人みなわれが下(しも)より出でたり。及ぶ者あらじ」とのみ思したり。比干(ひかん)といふ人の申さく、「人臣たるものは、死すとも諫め申さでは、いかがあるべき」とて、しひて諫めごとせられしかば、紂、怒(いか)りて、「聖人の胸には九つの竅(あな)あり」とて、比干を裂きて、その胸を見給ひき。 かやうの悪逆のみ積りしかば、諸侯もそむき天も捨て果て給ひて、周の武王のために亡ぼされ給ひぬ。 武王((周の武王))、左に黄鉞(くわうゑつ)を突き、右に白旄(はくばう)をとりて、大誓を作りて、諸侯に告げ給ひし御言葉には、「紂、婦人の言を用ゐる。牝鶏((底本「ヒンケイ・メントリ」と読み仮名。))は晨(あした)することなし。牝鶏の晨するは、家の尽くるなり。また三正を破り、王の父母弟を離(はな)ち、先祖の楽を捨てて、淫声(いんせい)を作り、今われ天の罸を行ふべし」とて、軍(いくさ)を進め給ひしに、紂が軍(いくさ)多しといへども、戦はんといふ心さらになくして、みな敗れぬれば、紂は鹿台にのぼりて、珠玉をかぶり着て、みづから火に焼け給ひぬ。武王、その頭を切りて、大白の旌(はた)にぞかけたまひし。 この紂の振舞ひ、夏の桀(けつ)に少しもたがひ給はず。このゆゑ悪王のもとをば桀紂と申し、聖主のはじめをば尭舜と申す。されば、「尭舜生まれて上にまさば、十の桀紂ありとも乱るることあらじ。桀紂生まれて上にあらば、十の尭舜ますとも治め給ふことあらじ」なども申したり。 魯の哀公と申す人、孔子に語り給ひけるは、「人よくもの忘れするものあり。宅を造りて、わたましするに、その妻を忘れたり」とのたまひければ、孔子は、「もの忘れすることの、これよりはなはだしきものあり。桀紂が君のその身を忘れたるを見る」とこそ答へさせ給ひけれ。 この時変異(ヘンイ)のなかりしを、「天道に違(たが)ひて捨て給へるゆゑに天変なし」、また、「昏乱暴虐(こんらんぼうぎやく)の政の怪異なれば、その上には変異なし」とも申せり。 湯帝よりこの紂にいたるまで、三十主、合はせて六百二十九年なり。 [[m_karakagami1-17|<>]] ===== 翻刻 ===== 第三十の主を紂と申き聞見給ことはなはたとく材力(サイリヨク)人に 過て手つから猛獣(モウシウ)をうち給国々の賦税(フセイ)をあつく/s24r・m46 成て鹿臺(ロクタイ)とてひろさ三里たかさ千尺なるくらをつくり て銭ををきみて給酒を池とし糟(カス)を丘としししむらを 林として男女あかはたかにて其中にたのしみ戯て長夜の 飲とてひまなかりしかは百姓うらみを成て謀叛ことことく 国(背イ)にそむきけり妲己(タツキ・ヒシンノ心也之ハ一世ノ間〓ヲシテ咲也)と申ける女を愛してこれかおもし ろかることのみをおこなはれ政もこの妲己か申ままなりけり 炮格(ハウカク)の刑とて銅の柱を立てあふらをぬれりそのしたに 火ををこして罪科ある者をはそのはしらにのほせらるる に油すへりて火の中へおちいるを妲己見て咲けれは 常に咲せんとてこのみをこなはれき九侯と申す大/s24l・m47 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/24 臣みめよきむすめを后にまいらせられたりしか淫を このますとてころされきそのちちの九侯をはししびしほ にそせられし西伯昌(セイハクシヨウ)は大臣の位にてかやうの御政をなけ きかなしませ給しを紂ききてとらへて牖里(イウリ・ロウシヤノ心)にこめおかれ き西伯の臣たち美女善馬なとを紂にまいらせられしかはよろ こひて西伯をはゆるされぬ西伯炮格の刑(ツミ)いとむさんにおほして 洛西の地をたてまつりてこの刑をととめらるへしと申 されしかはととめられにき人みなわれかしもよりいてたり およふものあらしとのみおほしたり比干(ヒカン)といふ人の申さく 人臣たるものは死とも諫申さてはいかかあるへきとてしゐて/s25r・m48 諫ことせられしかは紂いかりて聖人のむねには九の竅ありとて 比干をさきてそのむねをみ給きかやうの悪逆のみつもりし かは諸侯もそむき天もすてはて給て周の武王のために ほろほされ給ぬ武王左に黄鉞(クワウヱツ)をつき右に白旄(ハクホウ)をとり て大誓をつくりて諸侯につけ給し御ことはには紂婦人の 言をもちゐる牝鶏(ヒンケイ・メントリイ)はあしたすることなし牝鶏のあした するは家のつくるなり又三正をやふり王の父母弟を離(ハナ) ち先祖の楽をすてて淫声(インセイ)をつくり今われ天の罸を おこなふへしとていくさをすすめ給しに紂かいくさおほしと いへとも戦はんといふこころさらになくしてみなやふれぬれは/s25l・m49 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/25 紂は鹿臺にのほりて珠玉をかふりきてみつから火に やけ給ぬ武王その頭をきりて大白の旌(ハタ)にそかけたまひ しこの紂のふるまひ夏の桀(ケツ)にすこしもたかひ給はすこの ゆへ悪王のもとをは桀紂と申し聖主のはしめをは尭舜 と申すされは尭舜むまれて上にまさは十の桀紂ありと も乱るることあらし桀紂むまれて上にあらは十の尭舜 ますとも治めたまふことあらしなとも申たり魯(ロ)の哀公(アイコウ) と申す人孔子にかたり給けるは人よくものわすれする ものあり宅をつくりてわたましするにその妻をわす れたりとのたまひけれは孔子はものわすれすることの/s26r・m50 これよりはなはたしきものあり(我イ)桀紂か君の其身をわすれたる を見とこそ答させ給けれこの時変異(ヘンイ)のなかりしを天 道に違(タカイ)てすてたまへるゆへに天変なし又昏乱(コンラン)暴虐(ホウキヤク)の 政の怪異(クワイ)なれはそのうへには変異なしとも申せり湯帝 よりこの紂にいたるまて卅主あはせて六百廿九年なり/s26l・m51 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/26