[[index.html|唐鏡]] 第一 伏羲氏より殷の時にいたる ====== 14 殷 帝太甲 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami1-13|<>]] 第四の主をば帝太甲(たいかふ)と申しき。これは湯帝の太子、太丁((底本表記「大丁」。))の御子なり。太丁、湯に先立ちて隠れ給ひしかば、位をつがせ給はざりき。この太甲をば、伊尹(いゐん)立て給へり。 三年まで明らかならず、暴虐にて、湯の法にも従ひ給はず、世を乱り給ひしかば、伊尹、これを湯の山陵、桐宮といふところへはなち奉りて、閉ぢ込め奉りき。そのほどは、伊尹政(まつりごと)を摂行(せつかう)して、諸侯を朝ぜしめき。 太甲、桐宮に三年までゐ給ひて、御過ちを悔い、善(ぜん)にかへさせ給しかば、伊尹迎へ奉りて、政をさづけ奉りき。太甲、徳をおさめ給ひて、諸侯ことごとく帰し、百姓やすくなりしかば、伊尹、喜びのあまりに、太甲訓三篇を作りて讃め奉りて、太宗と称し奉りき。((続けて底本「第五沃甲(大甲子)第六大康(漢丁子)第七小甲(大康子)第八雍己(小甲弟)殷道襄諸侯叛/第十仲丁(大戊子)十一外壬(丁子)十二河亶(甲壬弟)十三祖乙(甲子)十四祖辛(乙子)十五沃甲(辛子)十六祖丁(甲子)十七南庚(丁弟)十八陽甲(丁子)十九盤庚(甲子)二十小辛(庚弟)廿一小乙(辛弟)」と異本注記。)) [[m_karakagami1-13|<>]] ===== 翻刻 ===== 第四の主をは帝太甲(タイカウ)と申きこれは湯帝の太子大丁の御子也/s21l・m41 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/21 太丁湯にさきたちてかくれたまひしかは位をつかせ給はさり きこの太甲をは伊尹たてたまへり三年まて明らかならす 暴虐(ホウキヤク)にて湯の法にもしたかひ給はす世をみたり給しかは 伊尹これを湯の山陵(サンリヨウ)桐宮(トウキウ)といふところへはなちたてまつり てとぢこめたてまつりきその程は伊尹政を摂行して諸侯 を朝せしめき太甲桐宮に三年まてゐ給て御過(アヤマチ)を悔(ク)ゐ善(セン) にかへさせ給しかは伊尹迎へたてまつりて政をさつけたて まつりき太甲徳をおさめ給て諸侯ことことく帰し百姓や すくなりしかは伊尹よろこひのあまりに太甲訓(クン)三篇をつ くりてほめたてまつりて太宗と称したてまつりき (イニ第五沃甲(大甲子)第六大康(漢丁子)第七小甲(大康子)第八雍己(小甲弟)殷道襄諸侯叛/s22r・m42 第十仲丁(大戊子)十一外壬(丁子)十二河亶(甲壬弟)十三祖乙(甲子)十四祖辛(乙子)十五沃甲(辛子)十六祖丁(甲子) 十七南庚(丁弟)十八陽甲(丁子)十九盤庚(甲子)二十小辛(庚弟)廿一小乙(辛弟)/s22l・m43 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/22