唐物語 ====== 第19話 朱買臣会稽といふ所に住みけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、朱買臣、会稽といふ所に住みけり。世に貧しくわりなくて、せんかたなかりけれど、文(ふみ)を読み、物を習ふこと怠らず、そのひまには薪をこりて、世を渡るはかりごとをしけり。 かくて年月を経るに、あひ具したりける女、限りなく貧しき住居を堪へ難くや思ひけん、「我も人もあらぬさまになりて、世を試みん」など、細やかにうち語らひければ、「かくてしもやあり果つべき。今年ばかり心強くあひ念ぜよ」と((底本「と」なし))、よろづこしらへけれど、つひに聞かで、その年のうちに離れにけり。 夫、恋ひ悲しめどもいふかひなくて、次の年にもなりぬるに、この人の才覚、世に優れたることを御門聞かせ給ひて、その国の守になされぬ。初めて国に下りける有様、心言葉も及ばずめでたかりけり。かかれども、なほありし妻のことを心にかけて、一国(ひとくに)のうちを尋ね求めさすれど、似たる人なくて明かし暮らす。 園(その)に出でて狩りし遊びけるとき、こともなのめならず、あやしく侘しげなる賤の女が、筐(かたみ)といふ物を肘にかけて、菜を摘みて((底本「猶つみて」。尊経閣文庫本「なをつみて」。底本に従えば「なほ積みて」となるが、菜摘みに男女の出会いの意味があるため、「菜を摘みて」と解する。))ゐざり歩くを、「ゆゆしげなる者の姿かな」と見るほどに、我が昔のともに見なしてけり。 なほ、「僻目(ひがめ)にや」と目をとめて見けるに、いかにも違ふ所なかりければ、人知れず悲しく思えて、暮るるや遅きと呼び取りてけり。女、「我過つこともなきに、いかなることに当りなんずるにか」と、恐れ惑ひけれど、ありし昔のことなどを細やかに語らひければ、女、あさましく思えて、この夫をうち見るより、いかが思ひけん、いたく悩み煩ひて、暁方に絶え入りにけり。   もろともに錦を着てや帰らまし憂きに堪へたる心なりせば 心短かきは、何事につけても恨みを残さず((底本「のみさす」で「み」に「こ歟」と傍書。尊経閣文庫本「のこさす」。傍書及び尊経閣文庫本に従う。))といふことなし。錦を着て故郷((底本「古郷」))に帰るといふ。この人のことなり。 ===== 翻刻 ===== むかし朱買臣会稽といふ所にすみけり よにまつしくわりなくてせんかたなかり けれとふみをよみ物をならふことをこたらす そのひまにはたき木をこりて世をわたる はかりことをしけりかくてとし月をふるにあひ くしたりける女かきりなくまつしきす まゐをたえかたくや思けん我もひともあら/m397 ぬさまになりて世をこころみんなとこまや かにうちかたらひけれはかくてしもやありは つへきことしはかり心つよくあひ念せよ萬 こしらへけれとつゐにきかてそのとしのうち にはなれにけり夫こひかなしめともいふかひ なくてつきのとしにもなりぬるにこの人の才覚 よにすくれたる事をみかときかせ給てそ の国の守になされぬはしめてくににくたり けるありさま心こと葉もおよはすめてたかり けりかかれともなをありし妻の事を心にか/m398 けてひと国のうちをたつねもとめさすれと にたる人なくてあかしくらすそのにいててかりし あそひける時事もなのめならすあやしく わひしけなるしつのめかかたみといふ物をひ ちにかけて猶つみてゐさりありくをゆゆし けなるもののすかたかなとみる程に我むかし のともに見なしてけりなをひかめにやとめを とめてみけるにいかにもたかふ所なかりけれは ひとしれすかなしくおほえてくるるやをそき とよひとりてけり女我あやまつ事もなき/m399 にいかなる事にあたりなんするにかとおそれ まとひけれとありしむかしの事なとをこまや かにかたらひけれは女あさましく覚てこの夫 をうちみるよりいかかおもひけんいたくなやみ わつらひて暁かたにたえ入にけり もろともににしきをきてやかへらまし うきにたえたるこころなりせは 心みしかきはなにことにつけてもうらみを のみ(こ歟)さすといふ事なしにしきをきて古郷に かへるといふこの人の事也/m400