唐物語 ====== 第15話 漢の武帝李夫人はかなくなりて後・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、漢の武帝、李夫人はかなくなりて後、思ひ歎かせ給ふこと、年月経れどもさらにおこたり給はず。 そのかみ、病(やまひ)をせし時、行幸(みゆき)し給ひしかども、いかにも見え奉らざりけり。御門、「あやし」と思して、このよしを問はせ給ふに、「わが君に慣れつかうまつりしほど、つゆちり気色に違(たが)ひ奉らざりき。また、御心ざし浅からねば、恨みを残すこともなし。しかれとも病に沈み、形変はりて後、身を背く罪あるべけれども、また、思ふ所なきにあらず。紫の草のゆかりまで恵み給ひ、哀れみをかうぶる事は、ただ君の御心ざしの改まらざるほど也。しかるを、今の形、昔の御心変りなば、はかなきあとにも愁への涙色まさることを思ふに、衰へ姿、いと見え奉り申し」と聞こえさす。 御門、これを聞かせ給ふに、悲しくわりなく思さる。たとひ、夜半の煙(けぶり)と立ち昇るとも、いかでかそのゆかりを懐しと思はざらむ。ただこの世にて、今一度(たび)会ひ見んことを、強ひてのたまはすれども、遂に聞かではかなくなりにければ、御門、御心に恨み深し。 甘泉殿の内に、昔の形を写して、朝夕に見給ひけれど、物言ひ、笑むことなければ、いたづらに御心のみ疲れにけり。   絵に描ける姿ばかりの悲しきは問へど答へぬ歎きなりけり また、亡き人の魂返す香を焚きて、夜もすがら待たせ給ふに、九重(ここのへ)錦の帳の内、かすかにて、夜の灯火の影ほのかなる、やうやく小夜(さよ)更けゆくほど、嵐すさまじく、夜静かなるに、「反魂香の験(しるし)あるにや」と思え給ひけれど、李夫人の形、有るにもあらず、無きにもあらず、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくまがひて、束の間に消え失せぬ。待つこと久しけれど、返ることはうばたまの髪筋(かみすぢ)切るほどばかりなり。 灯火をそむけて、帳を隔てて物言ひ答ふることなければ、なかなか御心をくだくつまとぞなりにける。 ===== 翻刻 ===== むかし漢武帝李夫人はかなくなりて後思 なけかせ給事としつきふれともさらにをこた り給はすそのかみやまいをせし時みゆきした まひしかともいかにもみえたてまつらさりけり 御門あやしとおほしてこのよしをとはせ給に 我きみになれつかうまつりし程つゆちり 気色にたかひたてまつらさりき又御こころ さしあさからねはうらみをのこす事もなし しかれともやまひにしつみかたちかはりて 後みをそむくつみあるへけれとも又おもふ所な/m341 きにあらすむらさきのくさのゆかりまてめ くみ給あはれみをかうふる事はたた君の御こころ さしのあらたまらさる程也しかるをいまのかたち 昔の御心かはりなははかなきあとにもうれへ の涙いろまさる事を思におとろへすかたいと みえたてまつりまうしときこえさす御 門これをきかせ給にかなしくわりなく おほさるたとひ夜半のけふりとたちのほる ともいかてかそのゆかりをなつかしとおもは さらむたたこの世にていま一たひあひみん/m342 事をしいてのたまはすれともつゐにきか てはかなくなりにけれは御門御心にうらみ ふかし甘泉殿のうちにむかしのかたちをう つしてあさゆふに見給けれと物いひゑむ事 なけれはいたつらに御心のみつかれにけり ゑにかけるすかたはかりのかなしきは とへとこたへぬなけきなりけり またなき人のたましゐをかへす香をたき てよもすからまたせ給にここのへにしき の帳のうちかすかにてよるのともし火/m343 のかけほのかなるやうやくさよふけゆく程 あらしすさましくよしつかなるに反魂 香のしるしあるにやとおほえ給けれと李夫 人のかたちあるにもあらすなきにもあらす ゆめまほろしのことくまかひてつかのまに きえうせぬまつことひさしけれとかへる事 はうはたまのかみすちきるほとはかり也とも し火をそむけて帳をへたてて物いひこ たふることなけれはなかなか御心をくたくつま とそなりにける/m344