唐物語 ====== 第10話 徳言といふ人陳氏と聞こゆる女に相具したりけり ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、徳言といふ人、陳氏と聞こゆる女に相具したりけり。形、いとをかしげにて、心ばへなど思ふさまなりければ、互ひに浅からず思ひかはしつつ年月を経るに、思のほかに世の中乱れて、ありとある人、高きも賤しきも、さながら山林(はやし)に隠れまどひぬ。さりがたき親兄弟(おやはらから)も四方(よも)に立ち別れて、おのが様々逃げさまよへる中に、この人、別れを惜しむ心誰にも優れたりければ、人知れずもろともあひ契りけり。 「我も人も、いづ方となく失せなん後、おのづから世の中静まりて、またもあひ見る事ありなんものを、そのほどの有様をば、いかでか互ひに知るべき」と聞こえさするに、女の年ごろ持ちたりける鏡を中より切りて、おのおのその片々(かたかた)を取りて、月の十五日ごとに市(いち)に出だして、この鏡の半ばを尋ねさするものならば、必ずあひ見て、互ひにその有様を知るべし」と言ひつつ、いといたううち泣きて別れ去りぬ。 その後、この夫、恋しさわりなく思えて、いたづらに月日を過ぐるままに、「いかなる人に心を移して契りしことを忘れぬらん」と胸の苦しさ抑へ難くぞ思えける。   ます鏡割れて契りしそのかみの影はいづちかうつりはてにし かやうに思ひやりけるにしも、色・形のなまめかしく、花やかなるにやめで給ひけん、時の親王にておはしける人に限りなく思ひかしづかれて、年月を経るに、ありしには似るべくもなき 有様なれど、この鏡の片々を市に出だしつつ、昔の契りをのみ心にかけて、世の常はしたもえにてのみ過しけるに、鏡の割れ持ちたる人とて尋ねあひて、男女(をとこをんな)の有様、互ひにおぼつかなからず知りかはしつ。 女、これを聞きけるより、思えず悩ましき心地うち添ひて、うつし心ならぬ気色を見咎(みとが)めて、親王、怪しみ問ひ給ふを、さすがに覚えて、しばしは言ひ紛らはしけれど、しひてのたまはすれば、侘しながらありのままに聞こえさせ給ふ。親王、これを聞き給ふに、御袖も絞りあへず、あはれにいみじく思されけるにや、よそおひいかめしきさまにて出だしたてて、昔の男のもとへ送り遣はしたるに、徳言、限りなく嬉しきにつけても、まづ涙ぞ先立ちける。   契りおきし心にくまやなかりけむふたたび澄みぬ中川の水 賤しからぬ有様を振り捨てて、昔の契りを忘れざりけん人よりも、親王の御情けは、なほたくひあらじや。 ===== 翻刻 ===== むかし徳言といふひと陳氏ときこゆる女にあ ひくしたりけりかたちいとおかしけにて 心はへなと思さまなりけれはたかひにあさか らす思かわしつつとし月をふるに思のほ/m327 かに世中みたれてありとあるひとたかきも いやしきもさなから山はやしにかくれまと ひぬさりかたきおやはらからもよもにたち わかれてをのかさまさまにけさまよへるなかに この人わかれををしむこころたれにもすくれ たりけれはひとしれすもろともあひ契けり 我も人もいつかたとなくうせなんのちをのつか ら世中しつまりて又もあひみる事あり なん物をその程のありさまをはいかてかたかひ にしるへきときこゑさするに女のとしころ/m328 もちたりけるかかみをなかよりきりてをのをの そのかたかたをとりて月の十五日ことにいちにいたして このかかみのなかはをたつねさするものならは かならすあひ見てたかひにそのありさまを しるへしといひつついといたううちなきてわか れさりぬそののちこの夫こひしさわりなく おほえていたつらに月日をすくるままにいか なる人に心をうつして契しことをわすれ ぬらんとむねのくるしさをさへかたくそおほえ ける/m329 ますかかみわれてちきりしそのかみの かけはいつちかうつりはてにし かやうに思やりけるにしも色かたちのなまめ かしくはなやかなるにやめて給けん時の親王 にておはしける人にかきりなく思かしつかれ てとし月をふるにありしにはにるへくもなき ありさまなれとこのかかみのかたかたをいちにいた しつつむかしの契をのみこころにかけてよ のつねはしたもへにてのみすくしけるに かかみのわれもちたる人とてたつねあひて/m330 おとこ女のありさまたかひにおほつかなからす しりかわしつ女これをききけるよりおほえ すなやましきここちうちそひてうつし 心ならぬけしきをみとかめて親王あやしみ とひ給をさすかに覚てしはしはいひまきらは しけれとしゐてのたまはすれはわひし なからありのままにきこえさせ給親王これ をきき給に御袖もしほりあえすあはれにい みしくおほされけるにやよそおひいかめし きさまにていたしたてて昔のおとこの/m331 もとへをくりつかわしたるに徳言かきりなく うれしきにつけてもまつなみたそさき たちける 契おきし心にくまやなかりけむ ふたたひすみぬなか川の水 いやしからぬありさまをふりすててむかし の契をわすれさりけん人よりも親王の御なさ けは猶たくひあらしや/m332