唐物語 ====== 第8話 眄々といふ人張尚書に契を結びて幾年経れども・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、眄々といふ人、張尚書に契(ちぎり)を結びて、幾年(いくとせ)経れども、露塵(つゆちり)誰も心に違ふことなかりけり。花の春の朝(あした)、月の秋の夜も、もろともに舞を見、歌を聞きて、遊び戯ぶるるよりほかのいとなみなし。 かかれども、若き老ひたる定めなき世のうらめしさは、思ひのほかに、この夫はかなくなりにけり。この女、立ち後れたることを「悲し」と思ひて、別れの涙乾くことなし。みめ・形・心ばせなども、いとめづらかなるほどに、世に聞こへたりければ、御門より始めて、色を好む人々、懇ろに挑(いど)み言ひけるを、かぎりなく「憂し」と思ひけり。秋の夜、くまなき月を見ても、まづ昔の影のみ思ひ出でられて、   もろともに見しに光((底本「ひとり」。諸本により訂正))やまさりけむ今はさびしき秋の夜の月 「命は限りありといひながら、かくても生ける身のつれなさよ」などぞ、思ひ乱れける。 かくしつつ月日を過ぎゆけば、燕子楼の内(うち)荒れはてて、床(ゆか)の上、傍らさびしく思えけるままには、手づから身づから裁(た)ち着せたりける唐衣(からころも)を、取り重ねつつ身に触るれど、ありしばかりの匂ひだになかりければ、いとど涙を添ふるつまとなりにけり。   見るたびにうらみぞ深き唐衣たちし月日をへだつと思へば かくしつつ十二年の春秋を送りて、つひにはかなくなりにけり。 ===== 翻刻 ===== むかし眄々と云人張尚書に契をむすひていく とせふれとも露ちりたれも心にたかふことなか りけり花の春のあした月の秋の夜ももろとも にまひを見哥をききてあそひたはふるるより 外のいとなみなしかかれともわかきおひたるさ ためなき世のうらめしさはおもひのほかに この夫はかなくなりにけりこの女たちをくれ/m321 たる事をかなしとおもひてわかれのなみた かわく事なしみめかたち心はせなともいと めつらかなる程に世にきこへたりけれは御門 よりはしめて色をこのむ人々ねんころ にいとみいひけるをかきりなくうしとおもひ けり秋の夜くまなき月を見てもまつむ かしのかけのみおもひいてられて もろともに見しにひとりやまさりけむ いまはさひしき秋の夜の月 いのちはかきりありといひなからかくてもいける/m322 身のつれなさよなとそ思みたれけるかくしつつ月 日をすきゆけは燕子楼のうちあれはててゆかのう へかたはらさひしくおほえけるままにはてつから身 つからたちきせたりけるからころもをとりか さねつつ身にふるれとありしはかりのにほひた になかりけれはいととなみたをそふるつまと なりにけり みるたひにうらみそふかきからころも たちし月日をへたつとおもへは かくしつつ十二年の春秋ををくりてつゐに/m323 はかなくなりにけり/m324