唐物語 ====== 第5話 相如といふ人ありけり。世にたぐひなきほどに貧しくて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、相如((司馬相如。底本「相女」とあるのを諸本により訂正。以下すべて同じ))といふ人ありけり。世にたぐひなきほどに貧しくて、わりなかりけれど、よろづの事を知り、才学並びなうして、琴(こと)をぞめでたく弾きける。 卓王孫(たくわうそん)といふ人のもとに行きて、月の明かき夜、夜もすから琴(きん)を調べて居たるに、この家主の娘に、卓文君(たくぶんくん)と聞こゆる人、あはれにいみじく思えて、常はこれをのみ賞(め)で興じけるを、この文君が父母(ちちはは)、相如に近づくことを厭ひ憎みけれど、琴(こと)の音をやあはれと思ひ染みにけん、この男に会ひにけり。女方の父、よろづの宝に飽き充ちて、世の侘しきことを知らざりけり。かかれども、このわび人にあひ具したることを、いと心づきなきさまに思ひとりて、いかにも娘の行方(ゆくへ)を知らざりけれど、露塵(つゆちり)苦しと思はでなん、年月を過ぐしける。 この夫、蜀といふ国へ行きける道に、昇遷橋(せうせんけう)といふ橋ありけり。それを歩み渡るとて、橋柱(はしばしら)に物を書き付けけり。「我、大車(たいしや)肥馬に乗らずば、またこの橋を返り渡らじ」と誓ひて、蜀の国に籠りにけり。 その後、思ひのごとくめでたくなりてなむ、橋を返り渡りたりける。女、年ごろ貧しくてあひ具したるかひありて、親(した)しき疎(うと)き世の中の人々も、たぐひなく羨みける。   沈みつつ我が書き付けし言の葉は雲居に昇る橋にぞありける 心長くて、身をもて消(け)たぬは、今も昔も、なほいみじくこそ聞こゆれ。 ===== 翻刻 ===== むかし相女といふ人ありけり世にたくひ/m314 なき程にまつしくてわりなかりけれと よろつの事をしり才学ならひなうして琴 をそめてたくひきける卓王孫(タクオウソン)といふ人のもと にゆきて月のあかき夜よもすからきんをし らへてゐたるにこの家主のむすめに卓文君(タクフンクン)と きこゆる人あはれにいみしくおほえてつねは これをのみめてけうしけるをこの文君かちちはは 相女にちかつく事をいとひにくみけれとこと のねをやあはれと思しみにけんこのおとこにあ ひにけり女かたのちちよろつのたからにあきみち/m315 てよのわひしきことをしらさりけりかかれとも このわひ人にあひくしたる事をいと心つきなき さまに思とりていかにもむすめのゆくゑをしら さりけれと露ちりくるしと思はてなんとし 月をすくしけるこの夫蜀といふ国へ行ける みちに昇遷橋(セウセンケウ)といふ橋ありけりそれをあゆみ わたるとて橋はしらに物をかきつけけり我大車(タイシヤ) 肥馬にのらすは又この橋をかへりわたらしとちか ひて蜀の国にこもりにけりそののちおもひ のことくめてたくなりてなむ橋をかへりわた/m316 りたりける女としころまつしくてあひくし たるかひありてしたしきうとき世中の人 々もたくひなくうらやみける しつみつつわかかきつけしことのはは 雲ゐにのほるはしにそありける 心なかくて身をもてけたぬは今もむかしも 猶いみしくこそきこゆれ/m317