閑居友 ====== 下第5話 初瀬の観音に月参りする女の事 ====== ** はつせの観音に月まいりする女の事 ** ** 初瀬の観音に月参りする女の事 ** ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、東の京に、頼りなき若き女ありけり。かたのやうなる宮仕へなとしけれど、さしあたりて身を助くばかりのはかりごとにも当らでのみ過ぎ行きける。かかるままに、月ごとに初瀬の観音(くわんおん)に参りて、さまざまにぞ身を愁へ侍りける。 かくて三年(みとせ)の冬にもなりぬれど、さらにその験(しるし)なし。さすがたやすからぬ道なれば、いよいよその懐(ふところ)も狭(せば)くぞなりまさりける。また、世の中のならひなれば、人も口安からずもてあつかひけり。 さて、この女、さのみは道の用意もしあふへくもあらざりければ、「この度(たび)参りて、身のほども愁へはて侍りなば、今はさてこそは止みなめ。人の言ふも理(ことはり)((底本「事はり」))なり」など思ふよりまだきに、かきくらされてぞ悲しく侍りける。 さて、いつよりも、心をととのへて参りにけり。「この度(たび)は限りぞかし」と思ふに、あやしの木草まても目にかかりて、かきくらさること限りなし。 さて、その夜、涙をかたしきて、御前にうたたねともなくまろび臥しにけり。 さて、夢の中(うち)に、僧のいみじく、貴く、年たけ、徳至れりと見ゆるが、出で来給ひて、「あはれに思ふぞよ。恨めしくな思ひそよ。その後の方に臥したる女房の薄衣(うすぎぬ)を、やをら取りて着て、早く起きて帰りね」と仰せらるるありけり。 夢覚めて思ふやう、「あさましのわざや。果て果ては人の物盗むほどの身の報(ほう)にてさへ侍りけるよ。たとひ取りたりとても、衣(きぬ)一つは幾ほどのことかは侍るべき」とは思ひながら、「さりとては、やうこそはあるらめ。さばかり身をまかせて参り侍らん甲斐には、たとひ見付けられて、いかなる恥を見るとても、それをたにも仏の奉公にこそはせめ」など思ひて、後(あと)の方(かた)を見るに、まことに衣ひき着て寝(い)ねたる女房あり。やをら引き落して取るに、さらなり、仏の御はからひなれば、なじかは人も知らむ。 さて、取りて着て、やかて出でにけり。胸うちつぶれて、わびしくも悲しけれども、念じ返して、初瀬川のほどまで出でにけり。後ろに物いとののしりて来ければ、「あな悲し。さればこそ」と思ひて見れば、このことあやむべき人にはあらで、馬に乗りたる者の、あまたまかり出でけるなるべし。 さて、この馬に乗りたる男の言ふやう、「あの前(さき)に見ゆるは、女房にておはするにこそ。いかに夜深くは、ただ一人出で給ふにか。衣など着たるは、ことよろしき人にこそ侍るめれ。あれ留め聞こへよ。馬に乗せて明からん所まで送り聞こえん」と言ひけり。さて、供の男、走り付きて、このよしを言ひければ、そら恐しけれども、ただ仏を頼みて、「さらば、さも」とて、乗りにけり。 夜もほのめきて、人顔見ゆるほどにて、この女を見れば、我が浅からず思ひし者の、病に煩ひて失せにしに、つゆも違はず。喜びて、具して行きにけり。男は美濃の国の、人に仰がれたる者にてぞ侍りける。何事も乏(とも)しきことなかりけり。さて、この女を、またなくいみじき者に思ひて、年月を送りけり。 かかるに、この男、京に上るべきことありて、言ふやう、「これに一人おはせんも、月日もいたづらに思えなん。京に親しき人はなきか。かつは、かやうに行方(ゆくゑ)もなくかきくらしてしも、いぶせく思ふらん。共に上りて、さやうのことも明らめばや」と言ひけり。この女、親しき者一人もなけれども、さすが、ありのままに言はんもいかが思えけん、「姉にてありし者こそ、ただ一人侍りしか。さらば上りもせむ」とて、出で立ちけり。男、様々(さまざま)姉の料(れう)とて、物どもあまた用意などしてけり。 さて、上りて粟田口より京に入ぬ。胸うち騒ぎて、「よしなきあだことを言ひて、『跡なきことよ』と思はれなば、身もいたづらになりぬべし。また、仏の照し給はんことも畏れあり。何の狂はしに、かくは言ひけるにか」と悲しくて、三条わたりになりて、「しばし待ち給へ。このほどを訪ねん」と言ひて、いたく無下ならぬ家の、いと古びて見ゆるが、平門(ひらかど)に車寄せなどさるほどにしたるが、いたく騒がしくもなくて、うちしめりたるやうなるありけり。そこにて馬より下りて、さし入りて見るに、女の童のありけるに、「御前(ごぜん)はこれにおはしますか」と言ひければ、「おはしますめり」と言ひけり。「立ち出で給へ。もの申さむ」と言はせたれば、四十ばかりなる女房、いたく思ひくたすべくもなき、妻戸に出でて、「誰にかおはする」といふ。この人、「申すにつけて憚り多く侍れど、この二三年、田舎に侍りつるが、男のまかり上りて侍るが、「親しき者やある。そこに泊らむ」と申し侍るなり。これを姉にておはする所と申さむは、いかが侍るべき」と言ひけり。この主(あるじ)、「さらに憚りなし。とくそのよしを聞こえ給へ」と言ひつ。 さて、この家に入りて、前(さき)の用意の物ども内へ遣りてけり。さて、旅の具どもしたため、のどめて後、内より呼びければ行きぬ。主の女房言ふやう、「さても、いかに侍ることにてありしぞ」など問ひければ、ありのままに始めより語りつ。これを聞きて、この主、よよと泣き居りけり。「怪し」と思ひて、「いかに」と問へば、「かの初瀬にて、衣失なひてありしものは、我にて侍るなり。いと叶はぬ心に、観音の誓ひを仰ぎて参り侍しほどに、あることはなくて、あまりさへ衣を失なひて侍りしかば、人のはかなさは、何となく恨めしき心地して、その後は歩みを運ぶこともなし。家の様(さま)も、日に従ひて数ならずのみなりゆきて、男も失せてさへ侍れば、思ふ方なくて侍りつるなり。我が身ばかりにては、いかにも叶ふまじく侍りければ、せめても行末を照し給ひて、かやうに様々の物どもを賜はり侍ること、一度(ひとたび)は、『御身の情け』と思へども、二度思ふには、『仏の賜はせたる物ぞかし』と思ふに、とにかくにせきかねて侍るなり」と言ふ。これを聞きて、この女、声も惜しまず泣きけり。二人、いといたう泣きまさりて、なごむる方もなかりけり。 さて、「さるべき昔のことにてこそ侍らめ、いまよりは、まことの姉妹(あねおとと)につゆちり違ふまじ」など、懇(ねんご)ろに頼めつ。また、頼むほどなれば、男にもかすめ果つべきにあらざりければ、ありのままに知らせつ。男もいみじくあはれがりて、いよいよ仏の御はからひなれば、浅からずぞ思ひける。 げに、あはれに侍りける御恵みの深さかな。すべて観音のあはれみは、ことに類ひを出でて侍るにや。唐土(もろこし)に侍りし時、聞き侍りしは、愚かなる男の一人侍りけるが、法花経を読まむとするに、え叶はず侍りければ、いみじく形良き女の、いづくよりともなくて来たりて、妻(め)となりて、添ひ居て、懇ろに教へて、一部終りて後、観音の形に現はれて、失せ給へることありけり。 かやうに、ありがたき御あはれみを思ふに、そぞろに頼もしく侍り。一期の夕べには蓮台捧(ささ)げ給ひて、深き御恵みあらむずらんかしと、頼もしく、かたじけなく思え侍り。 ===== 翻刻 ===== 中比東の京にたよりなきわかき女ありけりかた のやうなる宮つかへなとしけれとさしあたりて 身をたすくはかりのはかり事にもあたらてのみ すきゆきけるかかるままに月ことにはつせのくわん/下12ウb174 おんにまいりてさまさまにそ身おうれへ侍けるかくて みとせの冬にもなりぬれとさらにそのしるし なしさすかたやすからぬ道なれはいよいよそのふとこ ろもせはくそなりまさりけるまた世中のなら ひなれは人もくちやすからすもてあつかひけりさて この女さのみは道のよういもしあふへくもあらさり けれはこのたひまいりて身のほともうれへはて侍 なはいまはさてこそはやみなめ人のいふも事/下13オb175 はり也なとおもふよりまたきにかきくらされてそ かなしくはへりけるさていつよりも心おととのへ てまいりにけりこのたひはかきりそかしとおもふに あやしの木草まてもめにかかりてかきくらさ る事かきりなしさてその夜なみたおかた しきて御前にうたたねともなくまろひふ しにけりさて夢のうちにそうのいみしくたうと くとしたけとくいたれりとみゆるかいてき給て/下13ウb176 あはれにおもふそようらめしくなおもひそよそ のあとのかたにふしたる女房のうすきぬおやをら とりてきてはやくおきてかへりねとおほせらるるあ りけり夢さめておもふやうあさましのわさや はてはては人の物ぬすむほとの身のほうにてさへ侍ける よたとひとりたりとてもきぬ一はいくほとの事かは 侍へきとはおもひなからさりとてはやうこそはあ るらめさはかり身おまかせてまいり侍らんかひには/下14オb177 たとひみつけられていかなるはちをみるとても それおたにも仏のほうこうにこそはせめなと思ひて あとのかたおみるにまことにきぬひききていねたる 女房ありやおらひきをとしてとるにさらなり ほとけの御はからひなれはなしかは人もしらむ さてとりてきてやかていてにけりむねうちつふ れてわひしくもかなしけれともねんしかへし てはつせかはのほとまていてにけりうしろに物/下14ウb178 いとののしりてきけれはあなかなしされはこそと おもひてみれはこの事あやむへき人にはあらてむまに のりたるもののあまたまかりいてけるなるへし さてこのむまにのりたるおとこのいふやうあの さきにみゆるは女房にておはするにこそいかに夜 ふかくはたたひとりいてたまふにかきぬなときたる はことよろしき人にこそ侍めれあれととめきこへ よむまにのせてあかか覧所まておくりきこゑん/下15オb179 といひけりさてとものおとこはしりつきてこの よしをいひけれはそらおそろしけれともたた仏 おたのみてさらはさもとてのりにけり夜もほの めきて人かほみゆるほとにてこの女おみれはわか あさからす思ひしもののやまひにわつらひてうせ にしにつゆもたかはすよろこひてくして ゆきにけりおとこはみのの国の人にあふかれたる ものにてそ侍ける何事もともしき事なかりけり/下15ウb180 さてこの女おまたなくいみしきものに思ひてとし 月おおくりけりかかるにこのおとこ京にのほるへき 事ありていふやうこれにひとりおはせんも 月日もいたつらにおほえなん京にしたしき人は なきかかつはかやうにゆくゑもなくかきくらして しもいふせくおもふらんともにのほりて さやうの事もあきらめはやといひけりこの女し たしきものひとりもなけれともさすかありの/下16オb181 ままにいはんもいかかおほえけんあねにてあり しものこそたたひとり侍しかさらはのほり もせむとていてたちけりおとこさまさまあねの れうとて物ともあまたよういなとしてけりさて のほりてあはた口より京に入ぬむねうちさはき てよしなきあたことをいひてあとなき事よと おもはれなは身もいたつらになりぬへしまた仏の てらしたまはん事もおそれありなにのくるはしに/下16ウb182 かくはいひけるにかとかなしくて三条わたりにな りてしはしまちたまへこのほとをたつねんと いひていたくむけならぬいへのいとふるひてみゆ るかひらかとに車よせなとさるほとにしたるか いたくさはかしくもなくてうちしめりたるやう なるありけりそこにて馬よりおりてさし いりてみるにめのわらはのありけるに御せんはこれに おはしますかといひけれはおはしますめりといひけり/下17オb183 たちいてたまへもの申さむといはせたれは四十はかり なる女房いたくおもひくたすへくもなきつまとに いててたれにかおはするといふこの人申すにつけて ははかりおほく侍れとこの二三年ゐ中に侍つるか おとこのまかりのほりて侍かしたしき物や あるそこにとまらむと申侍也これおあねにておは する所と申さむはいかか侍へきといひけりこのある しさらにははかりなしとくそのよしをきこゑ/下17ウb184 たまへといひつさてこのいゑにいりてさきのよういの 物ともうちへやりてけりさてたひのくとも したためのとめてのちうちよりよひけれはゆ きぬあるしの女房いふやうさてもいかに侍事 にてありしそなととひけれはありのままにはしめ よりかたりつこれおききてこのあるしよよとな きおりけりあやしとおもひていかにととへはかの はつせにてきぬうしなひてありしものは/下18オb185 我にて侍也いとかなはぬこころに観音のちかひをあふ きてまいり侍しほとにある事はなくてあまり さゑきぬをうしなひて侍しかは人のはかなさは なにとなくうらめしき心ちして其後はあゆみ をはこふ事もなし家のさまも日にした かひてかすならすのみなりゆきておとこも うせてさゑ侍れは思かたなくて侍つる也我身はか りにてはいかにもかなふましく侍りけれはせめ/下18ウb186 ても行すゑをてらしたまひてかやうにさまさま のものどもをたまはり侍事一たひは御身のな さけとおもへとも二たひおもふには仏のたまはせ たるものそかしとおもふにとにかくにせきかねて 侍也といふこれをききてこの女こゑもおしますな きけり二人いといたうなきまさりてなこむるかた もなかりけりさてさるへき昔の事にてこそ侍 らめいまよりはまことのあねおととにつゆちりた/下19オb187 かふましなとねんころにたのめつまたたのむ程 なれはおとこにもかすめはつへきにあらさりけれ はありのままにしらせつおとこもいみしくあはれ かりていよいよほとけの御はからひなれはあさからすそ 思ひけるけにあはれに侍ける御めくみのふかさ かなすへて観音のあはれみはことにたくひを いてて侍にやもろこしに侍し時きき侍しは おろかなるおとこの一人侍けるか法花経をよま/下19ウb188 むとするにゑかなはす侍けれはいみしくかたちよき 女のいつくよりともなくてきたりてめとなりて そひゐてねんころにおしへて一部おはりて 後観音のかたちにあらはれてうせたまゑる事 ありけりかやうにありかたき御あはれみを思ふに そそろにたのもしく侍一期のゆふへには蓮臺さ さけたまひてふかき御めくみあらむすらんかし とたのもしくかたしけなくおほえ侍/下20オb189