今昔物語集 ====== 巻14第30話 大伴忍勝発願従冥途返語 第三十 ====== 今昔、信濃の国、小県の郡嬢(をみな)の里に、大伴連忍勝と云ふ者有けり。大伴氏の者等、心を同くして、其の里に寺を造て氏寺として崇む。 而る間、忍勝、願を発して、「大般若経を書写し奉らむ」と思ふに依て、物を集む。而るに、忍勝、頭を剃て僧と成て、戒を受け袈裟を着て、心を発して仏の道を行ふ。常に彼の氏寺に住する間、宝亀五年と云ふ年の三月に、寺の檀越の属(やから)の間に事有て、忍勝を打損じて即ち死ぬ。忍勝が眷属等、相議して云く、「人を殺せる咎を忽に酬ひむが為に、忍勝が身を焼失はずして、地を点(さ)して墓を造て、忍勝を埋み納めて置つ。 而る間、五日を経て、忍勝、活(いきかへり)て墓より出でて、親しき族に語て云く、「我れ、死し時、使五人、我れを召て将行く。道の辺に甚だ峻(さか)しき坂有り。坂の上に登り立て見れば、三の大なる道有り。一は直くして広し。一は草生て荒たり。一は薮にして塞れり。衢の中に王の使有て、召す由を告ぐ。王、平かなる道を示して、『此より将行け』と行ふ。然れば、五人の使、衢に行く。道の末に大なる釜有り。湯の気有り。炎ほ、涌き上る浪の立て鳴が如し。雷の響の如し。即ち、忍勝を取て、彼の釜に投入るに、釜冷(すず)しく破れ裂て、四に破れぬ。其の時、三人の僧出来て、忍勝に問て云く、『汝ぢ、何なる善根をか造れる』と。忍勝答て云く、『我れ善を造る事無し。只、大般若経六百巻を書写し奉らむと思ふに依て、先づ願を発して、未だ遂げず』と。其の時に、三の鉄((「鉄」底本異体字、「䥫」))の口((底本頭注「口ハ札ノ誤カ」))を出して勘ふるに、忍勝が申す所の如し。僧、忍勝に告て云く、『汝ぢ、実に願を発せり。亦、出家して仏道を修す。此れ善根也と云へども、寺の物を用ふるが故に、汝が身を砕ける也。汝ぢ、人間に返て、速に願を遂げ、寺の物を犯せる事を償のへ』と云て、放返せるに、前の三の大道を過て、坂を下ると思へば、活へる也」と語る。 然れば、般若経の力に依て、冥途より返る事を得たり。此れを聞かむ人、専に般若経を信敬すべしとなむ語り伝へたるとや。