成尋阿闍梨母集 ====== 二巻(13) 五月五日とて幼き稚児どもの菖蒲取り散らして・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 五月五日とて、幼き稚児どもの、菖蒲(さうぶ)取り散らして、「これにもの書け」と言へば、   いつかとも知らぬこひぢの菖蒲草(あやめぐさ)うきねあらはす今日にこそありけれ とも、世の常なることを、「音(ね)に泣くのみも」いかなる人か言(い)に((底本「に」に「ひ歟」と傍書。))けむ、それにも必ず慰まぬことにこそ。 「渡るとも消息(せうそこ)は必ず言はむ」とありし、待つに見えで、人々の、「早く、渡り給ひにけり。筑紫の人々も、あはれがり泣きし」など言ふに、身のいとはしさまさりてぞ。「昔の人の、『憂きぞかぎりは』と言ひたる、まことにこそ」と、天をながめて、明かし暮らす。 今は、人を見むの心もなく、ただ、この世のなからむを願ひわぶるなり。   何ごとを昔の人は思ひてか泣くに命を絶ゆと言ひけむ とぞ思ゆる。   あだなれど歎くわが身は会ふことのかたきにこそはなりはてぬらめ かやうのこと、をかし思ふにも侍らず、ただ、言ふ方なく人に問ふとも、かひありて、よひうし((「よひうし」は意味不明。底本「う」に「本ニ本」と傍書。))聞こえて、見すべきならねば、ただ泣く泣くも思ゆるままに言ひ侍るなり。 「世に侍らずなり侍りなむに、な散らしそ」と言ひ置けど、それも思ひ知る人、必ずしも侍らじ。もし、あはれ知り給はむ人は、「あはれ」とも思せかし。 五月ばかりのことなり。   会ふことをいつかと待ちし菖蒲草うきためしにや人に引かれむ ===== 翻刻 ===== 五月五日とておさなきちことものさうふ とりちらしてこれにものかけといへは いつかともしらぬこひちのあやめくさ うきねあらはすけふにこそありけれ ともよのつねなることをねになくのみも いかなる人かいに(ひ歟)けんそれにもかならすなく さまぬことにこそわたるともせうそこはか ならすいはんとありしまつに見えて 人々のはやくわたり給にけりつくしの 人々もあはれかりなきしなといふにみの/s53r いとはしさまさりてそむかしの人のうきそ かきりはといひたるまことにこそと天をな かめてあかしくらすいまは人を見んの心 もなくたたこの世のなからんをねかひ わふるなり なにことをむかしの人はおもひてか なくにいのちをたゆといひけん とそおほゆる あたなれとなけくわか身はあふことの かたきにこそはなりはてぬらめ かやうのことをかしおもふにもはへらすたた/s53l いふかたなくひとにとふともかひありて よひう(本ニ本)しきこえて見すへきならねは たたなくなくもおほゆるままにいひはへる なりよに侍らすなり侍なんになちらし そといひをけとそれもおもひしる人かな らすしもはへらしもしあはれしり給はん 人はあはれともおほせかし五月許のこと也 あふことをいつかとまちしあやめ草 うきためしにや人にひかれむ/s54r