成尋阿闍梨母集 ====== 二巻(5) はかなくて過ぐる月日ぞわれ一人がおぼつかなさに・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== はかなくて過ぐる月日ぞ。われ一人がおぼつかなさに、「渡りやし給ひにけむ、まだ筑紫におはするにや」とも知らず。 また、この律師(りし)((成尋阿闍梨母のもう一人の子。))の、受け取りて、もてあつかひ給ふもいとほしく、二人おはしあひたりしを、嬉しく、たぐひなく思えて、嬉しかりしも思ひ出でられて、ただ音(ね)のみぞ泣かるる。 律師の御房より、車おこせ給ひて、「方違へよ」とてあれば、まかるに、らまち((底本「ら」に「本ニ本」と傍書。))この花のはなばなと咲きたるを見て、乞ふめれば、童(わらは)の多く折りて持て来たるも、折りからに、もののみあはれに、撫子(なでしこ)の萎(しぼ)みたるに、   秋深き唐撫子(からなでしこ)はかれぬともさがのこととて歎きしもせじ など、独りごちて行く道に、斎宮のおはしましたる跡、野宮といふに、屋をこぼち散らして、恐しげにしなしたるを見るに、かぎりなき御有様にても、おはしましけむほど、推し量られて、   かぎりなき神代の君が別れだに跡のあはれは悲しかりけり あしたに帰りても、天をながめて居たるほどに、「筑紫へまかる者なり。御文や賜ふ」と言ふに、胸きと騒ぎてぞ、つらく思ゆるに、   雲居まで飛び別れにし葦田鶴(あしたづ)はふみ見ぬ跡をたづねしもせじ と恨めしう思えながらも、書きて奉る。これも書きて奉らまほしかりしかど、かやうのことも見知り給ふ方は見えざりしかば、書かずなりにき。 心憂かりし別れを、夢と思ふも、「いつか、うつつの嬉しきを見む」など思ゆる。 ===== 翻刻 ===== はかなくてすくる月日そ我ひとりかお ほつかなさにわたりやし給ひにけん またつくしにおはするにやともしらす/s36r 又このりしのうけとりてもてあつかひ たまふもいとをしくふたりおはし あひたりしをうれしくたくひなく おほえてうれしかりしも思ひいて られてたたねのみそなかるるりしの 御房よりくるまおこせたまひてかた たかへよとてあれはまかるにら(本ニ本)まち この花のはなはなとさきたるをみて こふめれはわらはのおほくおりてもて きたるもおりからに物のみあはれに/s36l なてしこのしほみたるに あきふかきからなてしこはかれぬとも さかのこととてなけきしもせし なとひとりこちていく道に斎宮のお はしましたるあと野の宮といふに やをこほちちらしておそろしけにし なしたるをみるにかきりなき御あり さまにてもおはしましけむほと おしはかられて かきりなき神よの君かわかれたに/s37r あとのあはれはかなしかりけり あしたにかへりても天をなかめてゐ たるほとにつくしへまかるものなり 御ふみやたまふといふにむねきと さはきてそつらくおほゆるに くもゐまてとひわかれにしあしたつは ふみみぬあとをたつねしもせし とうらめしうおほえなからもかきて たてまつるこれもかきてたてまつら まほしかりしかとかやうのことも見/s37l しりたまふかたは見えさりしかは かかすなりにきこころうかりしわか れをゆめとおもふもいつかうつつの うれしきを見んなとおほゆるおもへ/s38r