成尋阿闍梨母集 ====== 二巻(2) われにもあらずはかなく日数過ぎ六月になりて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== われにもあらず、はかなく日数過ぎ、六月になりて、瘧(わらはやみ)のやなる心地起りて、日まぜに消えいるやにしつつわづらへば、暑く苦しきほどに、律師(りし)おはし通ひ、僧どもの経読み加持する暑けさを見るに、心地悪しきよりも、いとほしきに、からうじておこたり、あるにもあらで、いとど目も霧りたるやうに思えて過ぐす。 七月になりて、「凉しうやなる」と思へど、なほ暑きに、また、ありし心地起りて、いと苦しけれど、つねに、「人に言はじ。こたみたに、いかで死なむ」と思ひて、仏をのみ、返す返す恨みまほしう、ただ、「とく死なせ給へ」と念じ奉るに、またおこたりぬ。「心憂く、長き命かな」と思ふ。 われにてあらず過ぎて、八月になりて、風凉しう、いとどものあはれになりまさりて、常夏に臥し暮しし日数、思ひ出でられて、夏虫のえもいはぬ暑けさ、蜩(ひぐらし)の入る日を惜しむ、「かし給ふ」と聞こえ、朝顔のつとめてばかり花やぎ((底本、やの右に「さ歟」と傍書。))、夕顔の夜(よ)の間ばかり開(ひら)けたる、道芝のつゆの日影待つほどにも劣りたる身のはかなさを、「などか、片時(かたとき)の生きたるほどたに、いとかく憂き世歎かでだにあらで」、人知れず思ふに、荻の葉のそよと聞きなしつるに、音するを見やりたれば、いと心よげにて、折り返し折り返しもの思ひ知るべきさまもなく靡(なび)きたるに、かかれるささがにの、心細さまさる心地して、同じ心ならずとも、もののあはれ知りける人の気色も見えず。 萩の下葉も色変り、いつともしら露の命のかかるほどだに、思ふこと少なくて、あらぬ身のみ心憂く、何とも聞こえぬ虫の、草むらに思ひ思ひの声なる、あはれに嵯峨野などに鳴き乱るらむ、思ひやられて、   誰(たれ)をとも分かず鳴くらむまつ虫のわが身のさがの音(ね)にぞ通ふる 暮れぬれば、うち臥したる枕のもとに、いと近くきりぎりすの鳴く声の聞こゆるに、   草枕涙の露のかかるをやみねききつらなく((底本「なく」に「本ニ本」と傍書))きりぎりす と思ふに、枕のいたく濡れたれば、   夜もすがら涙の珠(たま)のかかればや草枕とは人の言ふらむ など、、独りごちつつ。 ===== 翻刻 ===== しきてふしてそはへりし我にも あらすはかなくひかすすきて六月に なりてわらはやみのやなる心地お こりて日ませにきえいるやにし つつわつらへはあつくくるしきほと にりしおはしかよひそうともの経よ みかちするあつけさを見るに心地あ しきよりもいとをしきにからう しておこたりあるにもあらていとと めもきりたるやうにおほえてすくす/s30l 七月になりてすすしうやなるとおも へと猶あつきに又ありしここちおこ りていとくるしけれとつねに人に いはしこたみたにいかてしなんとお もひて仏をのみ返々うらみまほし うたたとくしなせたまへとねんし たてまつるに又おこたりぬ心うく なかきいのちかなと思われにてあら すすきて八月になりて風すす しういととものあはれになりまさりて/s31r とこなつにふしくらしし日かす思ひい てられてなつむしのえもいはぬあ つけさ日くらしのいるひををしむかし たまふときこえあさかほのつとめて はかりはなや(さ歟)きゆふかほのよのまは かりひらけたる道しはのつゆの 日かけまつほとにもおとりたるみの はかなさをなとかかたときのいき たるほとたにいとかくうき世なけ かてたにあらて人しれすおもふに/k31l おきのはのそよとききなしつるに をとするをみやりたれはいと心よけ にてをり返々ものおもひしるへき さまもなくなひきたるにかかれる ささかにの心ほそさまさる心地して おなしこころならすとももののあはれ しりける人のけしきもみえすは きのしたはもいろかはりいつともし らつゆのいのちのかかるほとたに思 ことすくなくてあらぬ身のみこころ/k32r うくなにともきこえぬむしの草 むらにおもひおもひのこゑなるあはれに さか野なとになきみたるらん思ひ やられて たれをともわかすなくらんまつむしの 我身のさかのねにそかよふる くれぬれはうちふしたるまくらのもとに いとちかくきりきりすのなくこゑのきこゆるに くさまくらなみたのつゆのかかるをや みねききつらなく(本ニ本)きりきりす/k32l とおもふにまくらのいたくぬれたれは よもすからなみたのたまのかかれはや くさまくらとは人のいふらん なとひとりこちつつとしころ思ふことな/k33r