成尋阿闍梨母集 ====== 一巻(7) ほど経るままに夢を悪しう見たる心地のみして・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== ほど経るままに、夢を悪しう見たる心地のみして、ただ、うつつとも思えず、なべての世さへ暗れふたがりたる心地して、過ぎにし方のみ恋ひしう、近かりし折も、ことに軽々しくもてなし聞こえず、ならひ侍らざりしかど、面影に向ひ居給へる心地して、涙のみ暗れふたがりたる目に、異事(ことごと)も見えず。 ただ、「とく死なせ給へ」と、仏のみ念じ奉るほどに、律師(りし)((成尋阿闍梨母のもう一人の子。))おはして、向ひ居給へるほどぞ、少し慰むる心地して、もののたまふいらへなど聞こゆる。 「何か。ものな思しぞ。ただ、阿弥陀仏をよく念じ奉りおはせ」と言ひ置きておはするほど、入り日さしたり。「極楽願ふ」とありし。思ひ出でられて、   もろともに尋ね見よかしいれ置きし仏の路は変らじものを   うらみてはあしと言ふなる難波潟涙ぞ袖は包みわびぬる 日ごろになるにも、心地の弱く、苦しくなりて、「さは、今は、言ひ置き給ひし阿弥陀仏は、九品蓮台に迎へ給へ。そこにてだに、必ず対面せむ」と思ひなり侍りにき。 恋ひしく思え給ふこそ、わりなく片思ひに、あはれに侍るにも、世に人多かれど、「かかる人の心やは」と、昔世(むかしよ)知らまほしく。 人のもとより、のたまへる、   思ひやる心の内の悲しさをあはれいかにと言はぬ日ぞなき 返し、   生けらじと水底(みなそこ)にこそ沈みたれ言ひやることもなき涙かな 阿闍梨(あざり)の、「必ず詣(ま)で来て、失せなば、跡なりとも見む」とありし、思ひ出でられて、   きぬべしとたのめしかども唐衣(からころも)立ち返るまで経(ふ)べきわが身か と思ゆるほどに、松風の音、聞こゆれば、   別れ路を歎く心にまつ風の吹き驚(おどろ)かす音ぞ聞こゆる   うらみわび涙絶えせぬ藻塩草(もしほぐさ)かき集めても塩垂れぞ増す   涙川なくなくなりて絶えぬともながれけりとは跡に来て見よ   はるばると人はいくともわれはなき別れなりせば歎かましやは 山の方に鶯の鳴けば、   常磐山(ときはやま)こずゑを頼む鶯のつらき音(ね)に鳴くはな((「春」の誤りか。))にもあるかな ===== 翻刻 ===== ほとふるままにゆめをあしうみたる 心地のみしてたたうつつともおほえ すなへてのよさへくれふたかりたる心地 してすきにしかたのみこひしうちかか りしおりもことにかるかるしくもて/s15l なしきこえすならひはへらさりしかと おもかけにむかひゐ給へる心地して なみたのみくれふたかりたるめにことこと もみえすたたとくしなせ給へと仏 のみねんしたてまつるほとにり しおはしてむかひゐたまへるほとそ すこしなくさむる心地してもの のたまふいらへなときこゆるなにか ものなおほしそたた阿弥陀仏を よく念したてまつりおはせといひ/s16r おきておはするほといりひさしたり こくらくねかふとありし思ひいてられて もろともにたつね見よかしいれをきし ほとけのみちはかはらしものを うらみてはあしといふなるなにはかた なみたそそてはつつみわひぬる 日ころになるにも心ちのよはくくるしく なりてさはいまはいひをき給ひし あみた仏は九品蓮たいにむかへ給へそ こにてたにかならすたいめんせんと/s16l 思ひなり侍にきこひしくおほえ給 こそわりなくかたおもひにあはれに はへるにもよに人おほかれとかかる人の こころやはとんかしよしらまほしく人の もとよりのたまへる おもひやるこころのうちのかなしさを あはれいかにといはぬ日そなき かへし いけらしとみなそこにこそしつみたれ いひやることもなきなみたかな/s17r あさりのかならすまてきてうせなはあ となりともみむとありし思ひいてられて きぬへしとたのめしかともからころも たちかへるまてふへきわか身か とおほゆるほとにまつ風のおときこゆれは わかれちをなけくこころにまつ風の ふきおとろかすおとそきこゆる うらみわひなみたたえせぬもしほくさ かきあつめてもしほたれそます なみたかはなくなくなりてたえぬとも/s17l なかれけりとはあとにきてみよ はるはると人はいくとも我はなきわかれ なりせはなけかましやは やまのかたにうくひすのなけは ときはやま木すゑをたのむうくひすの つらきねになくはなにもあるかな/s18r