十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 ====== 10の34 頼政三位は多田満仲が末にて武芸その氏を継げりといへども・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 頼政三位((源頼政))は多田満仲((源満仲))が末にて、武芸、その氏を継げりといへども、和歌の浦波、立ち遅れざりけり。久しく大内の守護にてありながら、雲のかけはしよそにのみ、年を経けることの歎かしく思ゆるままに、   人知れぬ大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな と奏して、昇殿ゆりにけり。 三井寺覚讃僧正、年高くなりて、有識をゆりざりけるが、熊野に詣でて、   山川のあさりとならで沈みなば深き恨みの名をや残さむ 鳥羽院((鳥羽天皇))、聞こしめして、阿闍梨になされにけり。 顕昭法師、綱位の望みありけるに、   うらやましいかなる人の渡るらんわれをみちびけ法の橋守 かく詠みて、法橋になさる。 信光法眼、   ひきたつる人もなぎさの捨て舟もさすがに法のおしでをぞ待つ と詠めりけるを、西園寺入道相国((藤原公経))の御もとに奉りければ、法印に申しなされにけり。 但馬守家長((源家長))、粟田宮歌合に、「寄山夕」といふことを、   龍田山夕くれなゐのうすごろも袖のしづくはふるかひもなし と詠みて、五品の一階を加へられける。 ===== 翻刻 ===== 卅三頼政三位ハ多田満仲カ末ニテ、武芸其氏ヲ継リトイヘ トモ、和歌ノウラナミタチオクレサリケリ、久ク大内ノ守 護ニテ有ナカラ、雲ノカケハシヨソニノミ年ヲヘケル事ノ 歎シク覚ルママニ、 人シレヌ大内山ノ山モリハ木カクレテノミ月ヲミルカナ ト奏シテ、昇殿ユリニケリ、 卅四三井寺覚讃僧正年高クナリテ、有識ヲユリサリケ ルカ、熊野ニ詣テ、/k73 山川ノアサリトナラテシツミナハ、フカキ恨ノ名ヲヤノコサム、 鳥羽院聞食テ阿闍梨ニ成レニケリ、 三十五顕昭法師綱位ノノソミ有ケルニ、 ウラヤマシイカナル人ノワタルラン、ワレヲミチヒケ法ノハシモリ カクヨミテ法橋ニナサル、 卅六信光法眼 ヒキタツル人モナキサノステ舟モ、サスカニ法ノヲシテヲソマツ トヨメリケルヲ、西園寺入道相国ノ御モトニ奉リケレハ、法 印ニ申成レニケリ、 三十七但馬守家長粟田宮哥合ニ、寄山夕ト云事ヲ、/k74 タツタ山ユフクレナヰノウスコロモ、ソテノシツクハフルカヒモナシ トヨミテ、五品ノ一階ヲクハヘラレケル、/k75