十訓抄 第九 懇望を停むべき事 ====== 9の8 伊通公の参議の時大治五年十月五日の除目に参議四人・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 伊通公((藤原伊通))の参議の時、大治五年十月五日の除目に、参議四人、師頼((源師頼。底本「俊房公息」と割注。))・長実((藤原長実。底本「顕季卿子息」と割注。))・宗輔((藤原宗輔。底本「宗俊公息」と割注。))・師時(源師時。底本「俊房公息」と割注。)等、中納言に任ず。 これみな位次の上臈なりといへども、伊通、その恨みにたへず、宰相・右兵衛督・中宮大夫、三つの官(つかさ)を辞して、檳榔毛の車を大宮面に引き出だして、破りたき、褐(かちん)の水干に、さよみの袴着て、馬に乗りて、神崎の君、かねのもとへおはしけり。今は官もなきいたづら者になれるよしなり。 また、年ごろ惜しみ置かれたりける蒔絵の弓を、中院入道右大臣((源雅定))のもとへ返しやるとて、   八年(やとせ)まで手ならしたりし梓弓(あづさゆみ)かへるを見ても音(ね)は泣かれけり 返し、   なにかそれ思ひ捨つべき梓弓また引きかへすをりもありなん かかりければ、この返歌のごとく、ほどなく、長承二年九月に前宰相より中納言になされにけり。宇治大納言隆国((源隆国))、前中納言より大納言になるためしとぞ。そののち、うちつづき昇進して、太政大臣まで昇り給ひにき。 これは、世も今すこしあがり、人も才能いみじかりけるゆゑなり。かやうのためしは、まれなることなれば、今のうちあるたぐひ、まなびがたかるべし。 おほかたは、二条院讃岐が歌に、   憂きもなほ昔ゆゑぞと思はずはいかにこの世を恨みはてまし と詠める、ことはりにかなへるにや。 ===== 翻刻 ===== 十一伊通公ノ参議ノ時、大治五年十月五日ノ除目ニ参議四 人師頼(俊房公息)長実(顕季卿子息)宗輔(宗俊公息)師時(俊房公息)等中納 言ニ任ス、是皆位次ノ上臈ナリトイヘトモ、伊通其恨ニタ ヘス、宰相右兵衛督中宮大夫三ノ官ヲ辞テ、檳桹毛車/k32 ヲ大宮面ニ引出シテ破リタキ褐水旱ニサヨミノ袴 キテ、馬ニ乗テ神崎ノ君カネノモトヘオハシケリ、今ハ 官モナキ徒モノニナレルヨシナリ、又年頃惜ミヲカレタリ ケル蒔絵ノ弓ヲ、中院入道右大臣ノモトヘカヘシヤルトテ、 ヤトセマテ手ナラシタリシアツサ弓、カヘルヲミテモネハナカレケリ、 カヘシ、 ナニカソレ思スツヘキアツサ弓、又引カヘスオリモアリナン、 カカリケレハ此返哥ノ如ク、ホトナク長承二年九月ニ前宰 相ヨリ中納言ニナサレニケリ、宇治大納言隆国前中納言 ヨリ大納言ニナル例トソ、其後ウチツツキ昇進シテ、太政/k33 大臣マテノホリ給ニキ、是ハ世モ今スコシアカリ、人モ才能 イミシカリケルユヘナリ、カヤウノタメシハマレナル事ナレハ、 今ノウチアルタクヒ、マナヒカタカルヘシ、大方ハ二条院讃岐カ 哥ニ、 ウキモナヲムカシユヘソト思ハスハ、イカニコノ世ヲウラミハテマシ トヨメル、コトハリニカナヘルニヤ、/k34