十訓抄 第八 諸事を堪忍すべき事 ====== 8の4 西行法師男なりける時かなしくしける女の三四ばかりなりけるが・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 西行法師((佐藤義清))、男なりける時、かなしくしける女(むすめ)の、三四ばかりなりけるが、重くわづらひて、限りなりけるころ、院の北面の者ども、弓射て遊びあへりけるに、いざなはれて、心ならずののしりくらしけるに、郎等男の走りて、耳にものをささやきければ、心ら知ぬ人は、何とも思ひ入れず。 西住法師((源季政))、いまだ男にて、源次兵衛尉とてありけるに、目を見合はせて、「このことこそすでに」とうち言ひて、人にも知らせず、さりげなく、いささかの気色も変はらで居たりし、「ありがたき心なり」とぞ、西住、のちに人に語りける。 これらは、さまこそかはれども、みな、ものに耐へ忍ぶるたぐひなり。心をもてしづめぬ人は、なにごともはなばなしく、けしからぬあやしの賤女(しづのめ)なとが、もの歎きたる声、気色は隣里も苦しく、「いかでか耐へん」と聞こゆれども、一日二日などに過ぎず。のちには、「さる気ありつるか」とだに思はぬこそ、あさましけれ。 また、女の妬み、同じく忍び慎むべし。いやしきはいはず((底本「いははず」。衍字とみて削除。))。ことよろしき人の中にも、どの方のすすむ人につけては、むくつけくなく、うたてき名を残すなり。 なかにも后は螽斯、『毛詩』のたとへおはしましき。もの妬みし給はぬこと、本文に見えたれども、それしも、え忍び給はず。 天暦女御安子皇后宮((藤原安子))は、宣耀殿の女御((藤原芳子))をぞ妬み給ひて、けしからぬ御振舞ひありけるによりて、御せうとの君達まで、かしこまり給ひけるとかや。 また、隆家大納言((藤原隆家))は雅信公((源雅信))の御女ゆゑ、儀同三司((藤原伊周))の語によりて、花山法皇を射奉るあひだ、兄弟ともに流罪せられ給ひけり。この道においては、忍びえざること、女にもかぎらざりけり。 これら、くはしくは『世継((『大鏡』・『栄花物語』))』に見ゆ。 ===== 翻刻 ===== 四西行法師男ナリケル時、カナシクシケルムスメノ、三四ハカ リナリケルカ、重クワツラヒテ限リナリケル比、院ノ 北面ノ者共、弓ヰテ遊ヒアヘリケルニイサナハレテ、心 ナラスノノシリクラシケルニ、郎等男ノハシリテ、耳ニ/k8 物ヲササヤキケレハ、心知ヌ人ハ何トモ思イレス、西住法 師イマタ男ニテ、源次兵衛尉トテ有ケルニ、目ヲ見アハ セテ、此事コソ既ニトウチ云テ、人ニモ不知サリケナク、 聊ノ気色モカハラテヰタリシ、有難心ナリトソ西住 後ニ人ニ語リケル、此等ハ様コソカハレトモ、皆物ニ堪忍 フル類也、心ヲモテシツメヌ人ハ、何事モハナハナシクケシ カラヌアヤシノシツノメナトカ物歎タル声気色ハ隣 里モクルシク、争カタヘント聞ユレトモ、一日二日ナトニス キス、後ニハ去気アリツルカトタニ思ハヌコソ浅猿ケレ、 又女ノ物ネタミ、同ク忍ヒツツシムヘシ、イヤシキハイハ/k9 ハス、事ヨロシキ人ノ中ニモ、其方ノススム人ニツケテハ、ム クツケクナク、ウタテキ名ヲ残ス也、中ニモ后ハ螽斯毛詩 ノ喩ヲハシマシキ物ネタミシ給ハヌ事本文ニ見ヱタ レトモ、ソレシモエシノヒ給ハス、天暦女御安子皇后宮 ハ宣耀殿ノ女御ヲソネタミ給テ、ケシカラヌ御振舞 有ケルニヨリテ、御セウトノ君達マテカシコマリ給ケ ルトカヤ、又隆家大納言ハ雅信公ノ御女ユヘ、儀同三司 ノ語ニヨリテ、花山法皇ヲ射奉ル間、兄弟共ニ流罪 セラレ給ケリ、此道ニオイテハ忍ヒエサル事、女ニモカキ ラサリケリ、コレラ委ハ世継ニ見ユ、/k10