十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の38 光明山といふ山寺に老尼ありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 光明山といふ山寺に、老尼ありけり。 いかなるにや、日吉、憑き悩まし給ひて、さまざまに託宣ども聞こえける時、ある僧、来あひて、尼の身にうちあはず、心づきなく思えける上(うへ)、奈良の方には、山王いとあがめ奉らぬ習ひにて、「こころみん」と思ひて、この尼に向ひて言ふやう、「まことに大明神あらはれ給ふならば、わが申さんこと、はからひのたまはせよ。わが極楽を願ふ志、深く侍り。いづれの行か、必ず往生の業となり侍るべき。このこと、凡夫の暗き心に、はからひがたくなん侍る」と申す。 尼、言ふやう、「汝、われをこころみむとする志、めざましけれども、なほざりにても、往生の業とて問はんこと、いかでか教へざらむ。所詮は、行は何にてもあれ、衆生の宿執、さまざまなれば、仏の御教へもまた、さまざまなり。いづれも、おろかならず。さして、そのことと定めがたし。信をいたし、功を積むぞ、貴(たつと)かるべき((「かるべき」は底本「あるべき」。諸本により訂正。))。ただし、このことに、いづれの行にも必ず具すべきこと、二つあり。信ずべきならば、言はむ」とのたまへば、この僧、思ふやう、「何事のことかは」と、等閑(なほざり)がてらに言ひ出だしたりつるを、かくげにげにしく、はからひのたまはするに、貴くなりて、「われ、もとより西方の行者なり。早く承りて、深く信ずべし」と申す。 重ねて教へ給ふ。「このことと言ふは、慈悲と質直となり。これを具せざれば、いづれの行を勤むとも、往生を遂ぐこと、きはめてかたし」とのたまふ。 僧、掌(たなごころ)を合はせて、「この二つを具せんこと、難く侍り。いかがつかまつらむ」と申しければ、「二つ具せんこと、なほ難くば、せめて、『慈悲はおろそかなりとも、質直ならん』と思へ。心うるはしからずして、浄土に生まるること、いかにもあるまじ」とぞ仰せられける。 ゆゑに、『維摩経』には、「質直是浄土也」と説き、『法華経』には、「柔和質直者」とも、また、「質直意柔軟((「軟」は底本「耎」。「軟」の異体字「輭」の誤写。諸本、及び『法華経』により訂正。))」とも述べて、心うるはしからむ者、仏を見奉るべきよし、「寿量品」のいくほどならぬ偈の内に、二所(ふたところ)まで教へ給へり。 また、八幡大菩薩、かたじけなくも、「正直の者の頭にやどらん」と誓はせ給ふにあはせて、   歩(あり)きつつ来つつ見れどもいさぎよき人の心をわれ忘れめや と詠ませ給へる、頼もしさよ。かかれば、二世の望みを遂げんこと、直しき心にはしくべからず。 ===== 翻刻 ===== 光明山ト云山寺ニ、老尼有ケリ、イカナルニヤ、日吉、付ナヤ マシ給テ、サマサマニ託宣トモキコヘケル時、或僧来相テ尼 ノ身ニウチアハス、心ツキナク覚エケルウヘ、奈良ノ方ニハ 山王イトアカメ奉ラヌ習ニテ試ント思テ、此尼ニ向テ 云ヤウ、実ニ大明神アラハレ給ナラハ、我申サン事ハカラヒ ノ給ハセヨ、我極楽ヲ願志深ク侍リ、イツレノ行カ必 往生ノ業トナリ侍ヘキ、此事凡夫闇キ心ニハカラ ヒカタクナン侍ルト申ス、尼云ヤウ、汝我ヲ試ムトスル 志メサマシケレトモ、ナヲサリニテモ往生ノ業トテ問/k101 ン事、争カヲシヘサラム、所詮ハ行ハ何ニテモアレ、衆生 ノ宿執サマサマナレハ、仏ノ御教モ又サマサマ也、イツレモヲ ロカナラス、サシテ其事ト定カタシ、信ヲイタシ功ヲツ ムソ、タツトアルヘキ、但シ、此事ニ何ノ行ニモ必具スヘ キ事二有、信スヘキナラハイハムトノ給ヘハ、此僧思 ヤウ、何事ノ事カハト等閑カテラニ云出タリツルヲ、カ クケニケニシクハカラヒノ給ハスルニ貴クナリテ、我本ヨ リ西方ノ行者ナリ、早ク承テ深ク信スヘシト申ス、 重テ教給フ、此事ト云ハ、慈悲ト質直トナリ、是ヲ 具セサレハ、何ノ行ヲ勤トモ、往生ヲ遂事キハメテカ タシトノ給フ、僧掌ヲ合テ此二ヲ具セン事固侍リ、/k102 イカカツカマツラムト申ケレハ、二ツ具セン事ナヲカタクハ、 セメテ慈悲ハオロソカナリトモ、質直ナラント思ヘ、 心ウルハシカラスシテ、浄土ニ生ルル事、イカニモアルマシ トソ被仰ケル、故ニ維摩経ニハ質直是浄土也ト説、 法華経ニハ、柔和質直者トモ、又質直意柔耎トモ ノヘテ、心ウルハシカラム者、仏ヲ可奉見ヨシ、寿量品 ノイクホトナラヌ偈ノ内ニ二所マテ教給ヘリ、又八 幡大菩薩忝正直ノ者ノ頭ニヤトラント誓ハセ給 ニアハセテ、 アリキツツキツツミレトモイサキヨキ、人ノ心ヲワレワス レメヤ/k103 トヨマセ給ヘル、タノモシサヨ、カカレハ二世ノ望ヲトケン事、 ナヲシキ心ニハシクヘカラス、/k104