十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の27 右兵衛督敏行不浄にて人のあつらへける経をあまた書きけるを・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 右兵衛督敏行((藤原敏行))、不浄にて、人のあつらへける経をあまた書きけるを、「清浄の料紙を書き汚(けが)しける」とて、文字を洗ひ落して、料紙をば帝釈宮に納められたり。文字を洗ひ捨てたる水、ことごとく大河となりて、敏行の黄泉路(よみぢ)のあたとなりけるこそ、よしなく思ゆれ。 結縁、いみじけれども、不信ならば、そのかひなかるべきにや。 ただし、天竺に烏龍といふ手書、仏法を背く者にて、多くのものを書くといへども、仏法の方には一文字をも書かずして、やみにけり。 その子、遺龍といふ者、あひつぎていみじき手書なりけるを、烏龍死にたる時、「なんぢ、あなかしこ、わがごとく仏法の方のものといはん、一文も書くな」と言ひて失せにけり。かかる不善の者なれば、悪道に落ちて大苦悩を受けたりけり。 遺龍、父の遺命に随(したが)ひて、深く仏法を背くといへども、国王の勅宣によりて、心ならず『法華経』八軸の外題六十四字を書くあひだに、その字、六十四体の仏となりて、烏龍が落つところの地獄に行きて、苦患を救ひ給ふにより、父、得道の由、遺龍、夢の告げを見たりけり。 これを思ふには、不信不浄の心なりとも、一字の縁を給びてむには、後世のたのみ、疑ひあるまじきにやと思え、やうによるべきにや。ひとすぢに思ひ定めがたし。 ===== 翻刻 ===== 三十右兵衛督敏行不浄ニテ人ノ誂ヘケル経ヲアマタ 書ケルヲ、清浄ノ料紙ヲ書ケカシケルトテ、文/k81 字ヲアラヒオトシテ、料紙ヲハ帝釈宮ニオサメラ レタリ、文字ヲ洗捨タル水悉大河ト成テ敏行ノ ヨミチノアタト成ケルコソヨシナク覚ユレ、結縁イミ シケレトモ不信ナラハ、其カヒナカルヘキニヤ、但天竺ニ 烏龍ト云手書仏法ヲ背ク者ニテ、多ノ物ヲ書ト イヘトモ、仏法ノ方ニハ一文字ヲモ不書シテヤミニケ リ、其子遺龍ト云者相継テイミシキ手書也ケル ヲ、烏龍死タル時、汝穴賢如我仏法ノ方ノ物ト云ハン 一文モカクナト云テ失ニケリ、カカル不善ノモノナレハ悪 道ニ落テ大苦脳ヲ受タリケリ、遺龍父ノ遺命 ニ随テ、深ク仏法ヲ背トイヘトモ、国王ノ勅宣ニヨ/k82 リテ心ナラス法華経八軸ノ外題六十四字ヲ書ク アヒタニ、其ノ字六十四体ノ仏ト成テ、烏龍カ落所ノ 地獄ニ行テ苦患ヲ救ヒ給ニヨリ父得道ノ由遺 龍夢ノ告ヲミタリケリ、是ヲ思ニハ不信不浄ノ心ナ リトモ、一字ノ縁ヲ給ヒテムニハ、後世ノ憑ミ疑ヒアル マシキニヤト覚エ、様ニヨルヘキニヤ、一筋ニ思ヒ定カタシ、/k83