十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の23 すべて凡夫はさることにて仏神によく信をいたし奉るべし・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== すべて、凡夫はさることにて、仏神によく信をいたし奉るべし。不信の者、昔より災殃にあたるたぐひ多し。 延喜八年八月廿六日、かみなりて、おそろしかりける時、清涼殿の坤(ひつじさる)の柱の上に、神火出で来て燃えけるに、大納言清貫卿((藤原清貫))、上の衣に火付きて、臥しまろび、おめき叫べとも消えず、右中弁希世朝臣((平希世))、顔焼けて、柱のもとに倒(たふ)れ臥しぬ。この二人は、尋常に仏法を軽んずるゆゑに、この災ひにあひたるよし、貞信公((藤原忠平))、語り給ひけり。 是茂朝臣((源是茂))、弓を取りて向ひけれど、たちどころに蹴殺されぬ。美奴の忠兼は、火に焼けて死亡し、紀蔭連は、炎に咽(むせび)て悶絶す。 これ、かぎりある天の災ひなりけれど、仏法を信じ奉る程の人は、その所にありながら、事故(ことゆゑ)なかりけり。貞信公は時平((藤原時平))の弟にておはしけれど、兄に同意し給はず。ことに、天神の御事を歎き給ひけり。そのゆゑにや、当座に候ひ給ひけれど、いささかの煩ひおはせざりけり。 かかればにや、正暦三年二月四日、御託宣の記の中には、 >わが西行の時、故貞信公は右大弁にて、深くわが遠行を歎きて、さらに兄の謀計に同せざりき。互ひに消息の状をかよはし、つひに慇懃を結びき。かの家の子息は、摂政たえずして、朝家に満てり。わがため志ある輩を、何ぞ守護せざらむや と載せられたり。 まことに、時平公以下、同意の光卿((源光))・定国卿((藤原定国))・菅根朝臣((藤原菅根))、その末、たえて聞かず。時平公は、延喜九年四月九日年三十九にして薨ず。御娘の女御((藤原褒子))、その御孫東宮((慶頼王))も失せ給ふ。一男、八条右大将保忠卿((藤原保忠))は承平六年十月十四日、四十六にて失せ給ひにき。三男、本院中納言敦忠卿((藤原敦忠))、天慶六年三月七日、四十八にてかくれ給ふ。 二男、富小路右大臣顕忠卿((藤原顕忠))のみぞ、深く天神に恐れ畏(かしこま)りて、毎夜、庭に出でて、天神を拝み奉りて、ことにおいて倹約を用ゐ給ひけり。大臣にて六年おはしけれども、前駆をも召し具し給はず、かたのごとく後車ばかりぞありける。御料参るにも、折敷(をしき)に取りすゑて、ものし給ひける。日隠しの間に、小桶に杓を具して、水を入れ置きて、御手をすましけり。 そのゆゑにやありけん、右大臣・左大将・従二位を経て、康保二年四月二十四日にぞ、六十八にて失せ給ひにける。正二位をば、後に贈られけり。ただし、かの家の人なれども、仏道に入れる公達は、ことなかりけり。 時平は、すべておごれる人にておはしけるにや。御伯父(おぢ)の国経の大納言((藤原国経))の室は、在原棟梁女なりけるを、たばかりて、わが北の方にし給ひけり。敦忠卿の母なり。国経、歎き給ひけれども、世の聞こえに憚かりて、力及ばざりけり。   思ひ出づるときはの山のいはつつじいはねばこそあれ恋しきものを この歌、国経卿、そのころ詠み給ひけるとぞ。『古今集((古今和歌集))』に、読人不知(よみびとしらず)に入りけり。 兵衛佐貞文((平貞文・平中))の妻、本院侍従をもさまたげられけり。貞文、消息をだにかよはさずなりにければ、かの女の若君の歳(とし)五つばかりなるが、本院の西の対に遊びける、腕(かひな)に、「母に見せ奉れ」とて、書きつけけり。   昔せしわがかねことのかなしきはいかに契りし名残なるらん 返し、   うつつにてたれ契けんさだめなき夢路(ゆめぢ)とまどふわれはわれかは ===== 翻刻 ===== スヘテ凡夫ハサル事ニテ仏神ニヨク信ヲイタシ 奉ルヘシ、不信ノ者ムカシヨリ災殃ニアタルタク ヒ多シ 廿七延喜八年八月廿六日カミナリテオソロシカリケル 時清涼殿ノ坤ノ柱ノ上ニ神火出来テモエケルニ大 納言清貫卿上ノ衣ニ火付テ、臥マロヒオメキサ ケヘトモキエス、右中弁希世朝臣カホヤケテ 柱ノ本ニタフレ臥ヌ、此二人ハ尋常ニ仏法ヲ軽 ンスル故ニ、此災ニアヒタルヨシ、貞信公語給ケリ、是茂 朝臣弓ヲ取テムカヒケレト、立所ニケコロサレヌ、/k74 美奴ノ忠兼ハ、火ニヤケテ死亡シ、紀蔭連ハ、ホノ ホニ咽テ悶絶ス、是有限天ノワサハヒナリケレト、 仏法ヲ信奉ル程ノ人ハ其所ニ有ナカラ、事故ナ カリケリ、貞信公ハ時平ノ弟ニテオハシケレト、兄 ニ同意シ給ハス、殊ニ天神ノ御事ヲ歎給ケリ、其 故ニヤ当座ニ候給ケレト、聊ノ煩ヒオハセサリケリ、 カカレハニヤ正暦三年二月四日御託宣ノ記ノ中ニ ハ、我ガ西行ノ時、故貞信公ハ右大弁ニテ深ク我遠 行ヲ歎テ、更ニ兄ノ謀計ニ同セサリキ、互ニ消 息ノ状ヲカヨハシ終ニ慇懃ヲムスヒキ、彼家ノ子 息ハ摂政タエスシテ朝家ニミテリ、為我有志/k75 輩ヲ何ゾ守護セサラムヤトノセラレタリ、実ニ 時平公以下同意ノ光卿定国卿菅根朝臣其 末タエテ不聞、時平公ハ延喜九年四月九日年卅 九ニシテ薨、御娘ノ女御其御孫東宮モ失給、一 男八条右大将保忠卿ハ承平六年十月十四日四十 六ニテ失給ニキ、三男本院中納言敦忠卿天慶六 年三月七日四十八ニテカクレ給二男冨小路右大臣 顕忠卿ノミソ深ク天神ニ恐レ畏テ、毎夜庭ニ出テ 天神ヲ拝奉テ、事ニヲイテ倹約ヲ用給ケリ、 大臣ニテ六年オハシケレトモ前駈ヲモ召具給 ハス、如形後車斗ソ有ケル、御料マイルニモ、オシキ/k76 ニ取居ヘテモノシ給ケル、日隠ノ間ニ小桶ニ杓ヲ具 テ水ヲ入置テ御手ヲスマシケリ、其故ニヤ有ケン 右大臣左大将従二位ヲ経テ康保二年四月廿四 日ニソ六十八ニテ失給ニケル、正二位ヲハ後ニ贈ラレ ケリ、但彼家ノ人ナレトモ、仏道ニ入レル公達ハ事 ナカリケリ、時平ハ、スヘテオコレル人ニテオハシケル ニヤ、御オチノ国経ノ大納言ノ室ハ在原棟梁女 也ケルヲ、タハカリテ我北方ニシ給ケリ、敦忠卿母 也国経歎給ケレトモ、世ノ聞ニ憚テ力及ハサリケリ、 思ヒイツルトキハノ山ノイハツツシイハネハコソアレ コヒシキモノヲ、/k77 此哥国経卿其頃読給ケルトソ、古今集ニ読人不 知ニ入ケリ、兵衛佐貞文ノ妻本院侍従ヲモサマタ ケラレケリ、貞文消息ヲタニカヨハサスナリニケレハ、 カノ女ノワカキミノ歳五ハカリナルカ、本院ノ西対ニア ソヒケルカイナニ母ニミセタテマツレトテカキツケ ケリ、 昔セシワカカネコトノカナシキハ、イカニチキリシナ コリナルラン、 カヘシ ウツツニテタレ契ケンサタメナキ、ユメチトマトフ ワレハワレカハ、/k78