十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の14 菅家昌泰三年九月十日の宴に正三位の右大臣の大将にて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 菅家((菅原道真))、昌泰三年九月十日の宴に、正三位の右大臣の大将にて、内に候はせ給ひけるに、   君富春秋臣漸老   恩無涯岸報猶遅 と作らせ給ひければ、叡感の余りに、御衣を脱ぎてかづけさせ給ひしを、同四年正月に、本院の大臣(おとど)((藤原時平))の奏事不実によりて、にはかに太宰権帥にうつされ給ひしかば、いかばかり世もうらめしく御鬱も深くありけめども、なほ君臣の礼は忘がたく、魚水の契りも忍びえずや思えさせ給ひけん、「都の形見」とて、かの御衣を御身にそへられたりけり。 さて、次の年、同日、かくぞ詠ぜさせ給ひける。   去年今夜侍清涼   秋思詩篇独断腸   恩賜御衣今在此   捧持毎日拝余香 源氏中将((光源氏))、須磨の浦にしづめりけるころ、八月十五夜の月に心を澄まして、殿上の御遊びも恋ひしく、上の御物語し給ひしも思ひ出でられて、   見るほどぞしばしなぐさむめくりあはん月の都は遥かなれども とながめて、この詩を一句を誦して入り給ひぬと、かの物語((『源氏物語』をさす。))に書けるこそ、まことならぬあらましなれども、思ひよせたる風情のほどをかしけれ。 さても、菅家の御遠行((「御遠行」は底本「御幸行」。諸本により訂正。))あらんとて、前の年、昌泰三年の十月ごろ、善相公清行卿((三善清行))の文章博士にておはしける時、かの御事をかねて勘(かんが)へ知りて、先見のあやふきことを告げ知らせ奉られけることこそ、懇篤、その忠にあらはれ、賢慮、神のごとくにすみやかなりけれ。かの状の詞(ことば)にいはく、   離朱之明不能視睫上之塵   仲尼之智不能知篋中之物 と書かれたり。まことにさることと思ゆ。 讒奏によりて罪を蒙ること、昔もなきにはあらざりけり。 ===== 翻刻 ===== 十七菅家昌泰三年九月十日宴ニ正三位ノ右大臣 ノ大将ニテ内ニ候ハセ給ケルニ、 君冨春秋臣漸老 恩無涯岸報猶遅 トツクラセ給ケレハ、叡感ノ余リニ御衣ヲヌキテカ ツケサセ給シヲ、同四年正月ニ本院ノオトトノ 奏事不実ニ依テ、俄ニ太宰権帥ニウツサレ給 シカハ、イカハカリ世モウラメシク御鬱モ深アリ/k50 ケメトモ、猶君臣ノ礼ハ忘カタク、魚水ノ契モ忍得 スヤオホエサセ給ケン、都ノカタミトテ、彼御衣ヲ御 身ニソヘラレタリケリ、サテ次ノ年同日、カクソ詠セ サセ給ケル、 去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香 源氏中将スマノ浦ニシツメリケル頃、八月十五夜ノ 月ニ心ヲスマシテ、殿上ノ御アソヒモコヒシク、上ノ御物語 シ給シモ思出ラレテ、 ミルホトソシハシナクサムメクリアハン月ノミヤコハ ハルカナレトモ/k51 トナカメテ、此詩ヲ一句ヲ誦シテ入給ヌト、カノ物語ニ カケルコソ、マコトナラヌアラマシナレトモ、思ヒヨセタル風 情ノホトオカシケレ、サテモ菅家ノ御幸行アラント テ前ノ年昌泰三年ノ十月頃善相公清行卿ノ 文章博士ニテオハシケル時、彼御事ヲ兼テ勘ヘシリ テ、先見ノアヤウキ事ヲツケシラセ奉ラレケル事コ ソ懇篤其忠ニアラハレ、賢慮神ノコトクニ速カ也ケ レ、彼状ノ詞云、 離朱之明不能視睫上之塵、仲尼之智不能知 篋中之物 トカカレタリ、マコトニサル事トオホユ讒奏ニヨリテ罪/k52 ヲ蒙ル事、昔モナキニハアラサリケリ、/k53