十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の10 花山院の御時中納言義懐は外戚権左中弁惟成は近臣にて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 花山院((花山天皇))の御時、中納言義懐((藤原義懐))は外戚、権左中弁惟成((藤原惟成))は近臣にて、おのおの天下の権をとれり。 しかるを、御門、ひそかに内裏を出で、花山に幸するよしを聞きて、両人、追ひて参上のところ、御門、すでに比丘たり。惟成、髻(もとどり)を切る。また義懐に語りていはく、「外戚として重くおはしるつに、外人となりて、今さら世に交はらん、見苦かるべし。早く出家すべし」と。義懐、「このよしを存ず」とて、同じく出家す。「人の教訓にてしたれば、いかが」と時の人、思ひけるに、始終貴くて、飯室に住みて詠まれける、   見し人も忘れのみゆく山里に心ながくも来たる春かな 惟成、のちには賀茂祭の日、わさ角(づの)持ちて、一条大路を渡りけり。 さても、この御門、世をそむかせ給ふことのおこり、いとあはれにかなし。小野宮殿((藤原実頼。ただし、藤原為光の誤り。))の御女(むすめ)、弘徽殿の女御((藤原忯子))とてさぶらはせ給ひけるが、限りなく御志深かりけるに、おくれさせ給ひて、御歎き浅からず。 世の中、心細く思しめしけるころ、粟田関白((藤原道兼))、いまだ殿上人にて、蔵人弁など申けるにや、扇に、   妻子珍宝及王位   臨命終時不随者 といふ文を書きて持たれりけるを、御覧じけるより、御心おこりて、「げに、この世は夢幻のほどなり。国の宝・王の位、よしなし」と思しめしとりて、たちまちに十善の王位を捨てて、一乗菩提の道に入らせ給ひける。 すでに内裏を出でさせ給ひける夜は、寛和二年六月二十三日なりけり。有明(ありあけ)の月のくまなかりけるに、さすがいかにぞや、御心地思え給ひて、立ちやすらはせ給ひけるおりしも、叢雲(むらくも)の月にかかりけれは、「わが願、すでに満ちぬ」とてぞ、貞観殿の高妻戸(たかつまど)より降りさせ給ひける。それよりぞ、かの妻戸をば打ち付けられにけるとぞ。 粟田殿は、「御執行あらば、同じさまにて、いかならん所にても」と契り申されて、その夜も御供せさせ給ひたりけれども、さもなかりけり。あまつさへ、法皇の御事ありてのち、五ヶ月の中に、正三位中納言までになられにけり。「二心おはしまして、謀(たばか)り奉られける」とぞ、世の人申しける。 長徳元年に関白になり給ふといへども、ほどなく失せ給ひにけり。世には「七日関白」とぞ申しける。 ===== 翻刻 ===== 十三華山院御時中納言義懐ハ外戚、権左中弁惟 成ハ近臣ニテヲのヲの天下ノ権ヲトレリ、然ヲ帝/k42 ヒソカニ内裏ヲ出華山ニ幸スル由ヲ聞テ、両人 追テ参上之所、帝已ニ比丘タリ、惟成本鳥ヲ 切ル、又義懐ニ語テ云、外戚トシテ重クオハシルツニ、 外人トナリテ、今更世ニ交ン見苦カルヘシ、早ク出 家スヘシト、義懐此由ヲ存トテ同ク出家ス、人教 訓ニテシタレハ、イカカト時ノ人思ケルニ、始終タウ トクテ、飯室ニスミテヨマレケル、 見シ人モワスレノミユク山里ニ、心ナカクモキタル ハルカナ 惟成後ニハ賀茂祭日ワサツノ持テ一条大路ヲ ワタリケリ、サテモ此帝世ヲソムカセ給事ノヲ/k43 コリ、イト哀ニカナシ、小野宮殿ノ御女弘徽殿ノ 女御トテサフラハセ給ケルカ、限ナク御志深カリ ケルニオクレサセ給テ、御歎アサカラス、世中心細ク 思食ケル比粟田関白イマタ殿上人ニテ蔵人弁 ナト申ケルニヤ、扇ニ 妻子珍宝及王位、 臨命終時不随者、 ト云文ヲ書テモタレリケルヲ、御覧シケルヨリ、 御心ヲコリテ、ケニ此世ハ夢幻ノホト也、国ノタカラ 王ノ位ヨシナシト思食取テ、忽ニ十善ノ王位ヲ捨テ、 一乗菩提ノ道ニ入セ給ケル、既ニ内裏ヲ出サセ給ケル 夜ハ寛和二年六月廿三日ナリケリ、在明月ノ/k44 クマナカリケルニ、サスカイカニソヤ御心地オホエ 給テ立ヤスラハセ給ケルオリシモ、ムラクモ月ニ カカリケレハ、我願既ニミチヌトテソ、貞観殿ノタ カツマトヨリオリサセ給ケル、ソレヨリソ彼妻戸ヲ ハ被打付ニケルトソ、粟田殿ハ御執行アラハ、同サ マニテイカナラン所ニテモトチキリ申サレテ、其夜モ 御供セサセ給タリケレトモ、サモナカリケリ、剰法皇 ノ御事アリテ後五ヶ月ノ中ニ、正三位中納言マ テニナラレニケリ、二心オハシマシテタハカリ奉ラレ ケルトソ世人申ケル、長徳元年ニ関白ニ成給トイ ヘトモ、無程ウセ給ニケリ、世ニハ七日関白トソ申ケル、/k45