十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の15 ある殿上人水無月二十日余りいと暗きに太后宮に参りて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== ある殿上人、水無月二十日余り、いと暗きに、太后宮に参りて、馬道(めむだう)にたたずみけるに、上より人の音のあまたして来ければ、さりげなく引き隠れてのぞきけるに、つぼの遣水(やりみず)に蛍の多くすだくを見て、先なる女房、「ゆゆしき蛍かな。集めたる様にこそ見ゆれ」とて過ぐるに、次なる人、優なる声にて、   蛍火乱飛 と口すさみけり。また次なる、   夕殿に蛍飛て とうちながむ。しりなる人、   かくれぬ物は夏虫の と、はなやかに一人ごちたりけり。 とりどりにやさしく、おもしろくて、この男、何といふ一節もなからむが本意なくて、ねず鳴きをし出でたりければ、先なる女房、「もの恐しや。蛍にも声のありけるよ」とて、つやつや 騒ぎたる気色(けしき)もなく、うちしめりたる空おぼめきのほど、あまりに色深く、かなしう思えけるに、いま一人、「『鳴く虫よりも』とこそ思ひしに」ととりなしたりける、これまた思ひ入りたるほど、たえがたく奥ゆかしかりけり。すべて、とりどりにやさしく思えける。 この心は   音もせでみさをに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ ===== 翻刻 ===== 或殿上人ミナ月廿日アマリイトクラキニ太后宮ニ マイリテ、メムタウニ立スミケルニ、ウヘヨリ人ノ音ノア マタシテ来ケレハ、サリケナクヒキ隠レテノソキケル ニ、ツホノ遣水ニ蛍ノ多クスタクヲ見テ、サキナル女/k37 房ユユシキ蛍カナ集メタル様ニコソ見ユレトテ過 ルニ、次ナル人優ナル声ニテ蛍火乱飛ト口スサミケ リ、又次ナル夕殿ニ蛍飛テトウチナカム、シリナル人 カクレヌ物ハ夏虫ノト、ハナヤカニヒトリコチタリケリ、 取々ニヤサシク面白クテ、此男ナニト云一フシモナカ ラムカ本意ナクテ、ネスナキヲシイテタリケレハ、先ナ ル女房物ヲソロシヤ蛍ニモ声ノ有ケルヨトテ、ツヤツヤ サハキタル気色モナク、ウチシメリタル空オホメキ ノ程、アマリニ色深ク悲シウ思ケルニ、今独ナク虫ヨ リモトコソ思ヒシニト取成タリケル、是又思入タル程/k38 堪カタク奥ユカシカリケリ、惣テトリトリニヤサシク 覚ケル、コノ心ハ、 音モセテミサホニモユル蛍コソ、鳴虫ヨリモアハレナリケレ/k39