発心集 ====== 第七第3話(78) 中将雅通、法華経を持ち往生の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、左中将雅通((源雅通))といふ人ありけり。心うるはしくて、若きより法華経を読み奉りける。ことに、提婆品((提婆達多品))を信じて、毎日十・二十遍これを読む。しかれども、世に仕へ、人に交はる間、心ならず狩・漁(すなどり)し、もろもろの悪業を造り、常はかの、「浄心信敬不生疑惑者」の文を口付け、言草(ことぐさ)とせり。 命終の時、同じくこの文を唱へ、さまざまの瑞相を見て、往生疑ひなきよし、披露しけり。道雅朝臣((藤原道雅))、さらにこのことを用ゐず、「殺生を好み、世路(せいろ)をわしりつる人、いかが往生せむ」と言ふほどに、年経て後(のち)、六波羅蜜寺へ参りて、忍びて聴聞する間に、車の前に一人の尼ありて、おのがどち語つていはく、「年ごろ、往生を願へども、身貧(ひん)にして善根をなす力なし。朝夕これを歎くほどに、過ぎぬる夜の夢に見るやう、一人の僧ありて、告げていはく、『汝、歎くことなかれ。ただ心うるはしくして、念仏する者は、必ず極楽に生ずるなり。近くは中将雅通朝臣、心うるはしくして、法華経を持(たも)つかゆゑに、そのほかの善根なけれども、すでに往生を遂げたり』と語る。 道雅、つぶさにこれを聞きて、その後信じたりける。 ただ、いづれの行なりとも、心うるはしくして、その上に願を発(おこ)し、功を積むべきにこそ。 ある伝記にいはく、唐(もろこし)に并州といふ国あり。かの国の人は、七・八歳より道心ありて、念仏を申して、多く極楽に生ず。その中に、僧延法師といふ者あり。これ思ふやう、「必ずしも念仏してのみやは、極楽に生ずべき」。千部の経を始めて読む。百部になる夜の夢に、わが左右の脇より、羽の生ひ出で、飛びぬべく思えければ、あやしくて、これを見るに、法華経の文字の、ことごとく翼に生ひたるなりければ、あはれに尊く思えて、心に、「極楽へ飛び参らん」と思ふに、西を指して飛び行くほどに、すなはち、思ひのごとく参り着きぬ。 七重宝樹のもとに飛び降りたる間、この羽に生ひたる字、六万九千余の仏になり給ひて、みなことごとく光を放つて、阿弥陀仏を囲繞((底本「囲饒」。))して、並み居給へり。これを見奉るに、いよいよ尊くかたじけなく思えて、涙を流すことかぎりなし。 阿弥陀仏、のたまふやう、「この仏たちは、みな、汝が読み奉る法華経の文字にておはします。しかるを、汝、極楽を願ふ。娑婆に帰りて、千部の願を果して、もろもろの衆生を教へて。この経を持(たも)たしめよ」とのたまふ。 これを承はりて、帰らんとするとき、またこの多くの仏、帰つてもとのごとく翼となり給ひぬ。飛ぶ時、先のごとし。 僧延、夢覚めて、涙おさへがたくして、五体を地に投げて、夢中に見奉る仏たちを拝み、深心を発(おこ)して、この経を読み奉るとなむ。 またいはく、唐(もろこし)の恵超禅師といふ人あり。法華経に志深くして、年ごろ読み奉るほどに、やや功積りて後、いづくより来ともなく、小法師一人出でつかはれけり。 この小法師、心賢く、悟りありて、いまだ言はざることをも知り、思ふ心をも推しはかる。諸事に力たへて、これぞつかふに、いささかも心にたがふことなかりければ、またなきものに思ひて過ぎけるほどに、この恵超、ことのたよりに、真言の教へ勝れたることを聞きて思ふやう、「法華経は八巻を読み奉るもわづらはしきに、真言は文字は少くて、義理は甚深なれば、誦み易くして、功徳はよく勝れ給へり」と思ひて、法華経ををさめて、一向真言を習ひて、胎蔵界を行ふ。 その時に、日ごろつかへつる小法師、かき消つやうに失せぬ。いたらぬ隈(くま)なく尋ね求むれども、さらに行き方を知らず。恵超、これを歎きて、寝たりける夜の夢に、かの小法師来ていはく、「われ、まことには地蔵菩薩なり。汝、法華経に功を入れたること、尊(たつと)く思えて、日ごろつかへつれども、今はその志を改めて真言を習ふこと、本意なければ、去りぬるなり」と、のたまふと見たりける。 これ、必ずしも真言のおろかなるにはあらず。かつは、功を入れたる行を捨てたる謬(あやま)りをとがめ給へるなり。 そもそも、釈尊((釈迦))は、一期の化縁尽きて涅槃に入り給ひしが、この経、生身にかはりて、あまねく衆生を化度し給ふ。われは迷ひも耐へず、悟りもなき薄地(はくぢ)の凡夫として、無量劫に名をだに聞かぬ、平等大恵の教門にあへるは、また、他事(たじ)にあらず。釈尊、無縁の大悲、無作の誓願によりて、われらが道心少なしといへども、巌(いは)にも木にもあらず、いかで、この広大の恩徳を報じ奉らん。ただ、この経、一文一句をも、受持読誦して、これをもつて仏恩を報ぜんとすべし。 そのゆゑは、仏は三界特尊((三界独尊に同じ。))として、自在神通を得給へり。何物か乏しき、何事か御心に叶はざらん。ただ、われらが生死の海の底に沈み、浮かぶ世もなきを、一子の御憐れみに倦(う)むことなくて、悲しみ給ふばかりなり。 まことにねんごろなる御歎きにて侍らめ。かかれば、衆生一人が得道することは矌劫多生の御大事、「方々の方便を廻らし、種々の身を現じて縁を結ばん」と尽きせずかまへ、いとなみ給ふなるべし。 しかるを、この経の法師品に、「一偈一句なりとも、読み持(たも)ちて、書き供養し奉らん人は、みな仏になり給ふべし」と授記し給へり。また、「若暫持者、我則歓喜」などとも説き給へり。これを聞けば、わが身のため、頼もしきのみならず、仏の御心を喜ばしめ奉らんこと、いみじき要(えう)にて侍るなり。 孝経といふ文には((底本「孝経ニ云フ文」で「ニ」「フ」は振り仮名。文脈により訂正。))、「人の子の、曲(くせ)・片端(かたは)なくて生まれたるは、孝の始めなり」と言ふ。生まるる子の、心より発(おこ)らぬことなれども、父母を悦ばしむるは、孝養にて侍るなり。 しかれば、浄財を投げて供養し奉らばこそ、貧しくては力及ばずとも言はめ、かく広まり給ふ経、持(たも)ち奉らん、かたかるべきことかは。「全部通利し、文々解釈(げしゃく)せよ」とも説かず。鈍根無智なりとも卑下すべからず。世に師多ければ、千歳つかふる煩ひもあるまじ。 五種の行、まちまちなり。行も好みにしたがひて、もしは一偈一句なりとも、縁を結び奉らんことは、さすがに易行ぞかし。されど、習ひ読まねば、読までぞある。一偈を持(たも)ち奉る人は、これすなはち、信心は少なくて仏説を疑ひ、見聞は深くて微少の行と、人目を恥づるなるべし。これ、きわめて愚かなることなり。ただ、一文一句なりとも、飢えたるに水を飲むがごとく、遇ひがたく聞きがたき思ひをなして、縁を結び奉るべし。 近ごろのことにや、ある智者の、おちぶれて、子などあまた持ちたるありけり。児生まれて、もの言ふほどになりぬれば、さだまれることにて、必ず法華経の首題の字を教へて、かたの様なれど、これを唱へさす。生れて四つ五つにもなりぬれば、堪ゆるにしたがひて、一品・一巻までも、一句づつ口まねをして読ませけり。 人、そのゆゑを問ひければ、「この経は、仏出世の本懐なり。この子ども、もし命短かくて、いとけなくて((底本「雅テ」で「雅」に「イトケナク」と振り仮名。稚の誤りとみて訂正。))死ぬこともあらば、何をかは人界に生まれたる験(しるし)とせん。まことに、宝の山に入りて、空(むな)しく出づるが如し。かかれば、急ぎ縁を結ばするなり」とぞ言ひける。 大方、さるべき見物(みもの)などの時、見ても去りあへず、人の集まれるを見るときは、人界の生れがたきことも思えねど、まことには、また戒全持(たも)ちて生ると言へば、いとかたかるべきことにこそあれ。 今の世の人を見れば、一戒なほ持(たも)ちがたし。いはんや、また五戒をや。ただ、朝夕三悪道の業をのみ作る。かかれど、さすがに人の種(たね)も絶えぬことは、ただ、この経の広まれるゆゑなり。 宝塔品((見宝塔品))に、「此経難持、若暫持者、乃至是名持戒」と言ふ。その心は、「しばしもこの経を持(たも)つ者は、破戒なれど持戒なり」と言ふなり。まことに頼もしきことなり。ただし、もし、しばらくも信心深くて持(たも)つべくは、それもかたくや思ふべきに、同文の続きに、「是則勇猛、是則精進」とあれば、心ゆるく、懈怠(けだい)ならん人のために説かれたる文と見えたり。 すべては濁り深き末の世に、この経をさながら通利する人は、おぼろげの宿善とは思えず。現身にその証をも経(へ)、臨終に瑞相もあらはるべけれども、必しもしからず。この世には、持経者は多くて、その行儀ととのほりがたし。またことなる験(しるし)もなし。人の信を発(おこ)さぬも、これよりおこることなり。 げに、いとあやしきを、よく思へば、世々に値遇(ちぐ)し奉る力にて、無智文盲なる人も、おのづから通利す。生々に名利のためにして、まことの心を発さざりけるゆゑ、生死にも留まり、その威儀も欠けたるなめりとのみ思え侍る。 さりとて、ゆめゆめこれを軽しむべからず。金(こがね)は藁(わら)に包めりとても、値少なからず。いはんや、過去の結縁と、尽未来の得道、もつてかかるべきゆゑなり。 ===== 翻刻 ===== 中将雅通持法華経往生事/n5l 中比左中将雅通ト云人アリケリ。心ウルハシクテ。若 ヨリ法華経ヲヨミ奉ケル殊ニ提婆品ヲ信ジテ毎日 十廿遍是ヲヨム。シカレドモ世ニ仕ヘ人ニ交間。心ナ ラス狩スナドリシ諸ノ悪業ヲ造リ常ハ彼浄心 信敬不生疑惑者ノ文ヲ口付コトクサトセリ。命終ノ 時同コノ文ヲ唱ヘサマサマノ瑞相ヲ見テ。往生ウタ ガヒナキ由披露シケリ。道雅朝臣更ニ此事ヲ用 ズ殺生ヲコノミ世路ヲワシリツル人イカカ往生セム ト云程ニ。年経テ後六波羅蜜寺ヘ参リテ忍テ 聴聞スル間ニ車ノ前ニ一人ノ尼アリテ。ヲノガドチ/n6r 語テ云年比往生ヲ願ドモ身貧ニシテ善根ヲ作 力ナシ。朝夕是ヲ歎ホドニ。過ヌル夜ノ夢ニ見ル様 一人ノ僧アリテ告云汝ナゲク事ナカレ。只心ウル ハシクシテ念仏スル者ハ必極楽ニ生ズルナリ。近ハ 中将雅通朝臣心ウルハシクシテ法華経ヲ持カユヘニ 其外ノ善根ナケレドモ既ニ往生ヲ遂タリトカタル。 道雅ツブサニ是ヲ聞テ其後信ジタリケル。只何ノ 行ナリトモ心ウルハシクシテ其上ニ願ヲ発シ功ヲツ ムベキニコソ。或伝記ニ云唐ニ并州ト云国アリ。彼国 ノ人ハ七八歳ヨリ道心アリテ念仏ヲ申テ多ク極楽/n6l ニ生ス。其中ニ僧延法師ト云者アリ。是思ヤウ必シモ 念仏シテノミヤハ極楽ニ生スヘキ。千部ノ経ヲ始テ ヨム。百部ニナル夜ノ夢ニ。我左右ノ脇ヨリ羽ノ生出 トヒヌベク覚ヘケレバ。アヤシクテ是ヲ見ニ法華経ノ 文字ノコトコトク翅ニヲヒタルナリケレバ。哀ニ尊クオ ボヘテ心ニ極楽ヘ飛マイラント思ニ。西ヲサシテ飛 行ホドニ。即思ノゴトク参リツキヌ。七重宝樹ノ本 ニ飛ヲリタル間。此羽ニ生タル字六万九千余ノ仏 ニ成給テ皆悉ク光ヲ放テ阿弥陀仏ヲ囲饒シテ ナミヰ給ヘリ是ヲ見タテマツルニ弥尊ク忝ク覚ヘテ/n7r 涙ヲ流事カキリナシ。阿弥陀仏ノ給フヤウ。此仏タチハ 皆汝カヨミ奉ル法華経ノ文字ニテオハシマス。然ルヲ 汝極楽ヲネガフ娑婆ニ帰テ千部ノ願ヲハタシテ諸 ノ衆生ヲ教テ此経ヲタモタシメヨトノ給フ。是ヲ承 テ帰ラントスルトキ。又此多ノ仏帰テ本ノゴトク翅ト ナリ給ヌ。飛トキサキノ如シ。僧延夢サメテ。涙オサヘ カタクシテ五体ヲ地ニナゲテ夢中ニ見奉ル仏タチ ヲ拝ミ深心ヲ発シテ此経ヲ読奉トナム。又云唐 ノ恵超禅師ト云人アリ。法華経ニ志深シテ年比読奉 程ニ。ヤヤ功ツモリテ後。イヅクヨリ来トモナク小法師/n7l ヒトリ出ツカハレケリ。此小法師心賢ク悟アリテ。 イマダイハザル事ヲモシリ。思心ヲモ推ハカル。諸事 ニ力タエテ是ゾツカフニ聊モ心ニタガフ事ナカリ ケレバ。又ナキ物ニ思テ過ケル程ニ。此恵超事ノ タヨリニ真言教勝タル事ヲ聞テ思様。法華経 ハ八巻ヲヨミ奉モワヅラハシキニ。真言ハ文字ハ少 テ義理ハ甚深ナレバ誦易シテ功徳ハ能勝給 ヘリト思テ。法華経ヲオサメテ一向真言ヲ習テ 胎蔵界ヲオコナフ。其時ニ日来ツカヘツル小法師カ キケツヤウニ失ヌ。イタラヌ隈ナク尋求レドモ更/n8r ユキ方ヲシラズ。恵超是ヲ歎テネタリケル夜ノ夢ニ。 彼小法師来テ云。我実ニハ地蔵菩薩也汝法華経ニ 功ヲ入タル事尊ク覚テ。日来ツカヘツレドモ。今ハ其 志ヲ改テ真言ヲ習事本意ナケレバ去ヌルナリト ノ給ト見タリケル。是必シモ真言ノヲロカナルニハ非。 且ハ功ヲ入タル行ヲ捨タル謬ヲトガメ給ヘルナリ。抑 釈尊ハ一期ノ化縁尽テ涅槃ニ入給シガ此経生身ニ カハリテ普衆生ヲ化度シ給。我ハ迷モタヘズ悟モ ナキ薄地ノ凡夫トシテ無量劫ニ名ヲダニ聞ヌ平 等大恵教門ニアヘルハ又他事ニアラズ。釈尊無縁ノ/n8l 大悲無作ノ誓願ニヨリテ。我等カ道心スクナシトイ ヘドモ巌ニモ木ニモアラズ争此広大ノ恩徳ヲ報シ 奉ラン。只此経一文一句ヲモ受持読誦シテ是ヲ以テ 仏恩ヲ報セントスベシ。其故ハ仏ハ三界特尊トシ テ自在神通ヲ得給ヘリ。何物カ乏キ何事カ御心 ニ不叶只我等カ生死海ノ底ニシヅミ。浮フ世モナキ ヲ一子ノ御憐ニ倦事ナクテ悲給バカリ也。誠ニネン ゴロナル御歎ニテ侍ラメ。カカレバ衆生一人ガ得道ス ル事ハ矌劫多生ノ御大事方々ノ方便ヲ廻シ種々 ノ身ヲ現ジテ縁ヲ結バント尽セス構イトナミ給/n9r ナルベシ。然ヲ此経ノ法師品ニ一偈一句ナリトモ読 持テ書供養シ奉ラン人ハ皆仏ニ成給ベシト授記シ 給ヘリ。又若暫持者我則歓喜ナトトモ説給ヘリ。是 ヲ聞ケバ我身ノ為タノモシキノミナラズ仏ノ御心ヲ ヨロコバシメ奉ラン事イミジキ要ニテ侍ナリ。孝経 云文ニハ人ノ子ノ曲カタハナクテ生タルハ孝ノハジメ ナリト云。生ルル子ノ心ヨリ発ヌ事ナレ共。父母ヲ 悦バシムルハ孝養ニテ侍ナリ。然者浄財ヲ投テ供 養シ奉ラバコソ。貧テハ力及バズトモイハメ。カクヒロマリ 給経持奉ンカタカルベキ事カハ。全部通利シ。文々/n9l 解釈セヨトモ不説鈍根無智ナリトモ卑下スベカラス。 世ニ師オホケレバ。千歳仕ル煩モアルマジ。五種ノ行区 ナリ。行モ好ニシタガヒテ。若ハ一偈一句ナリトモ縁ヲ 結ビ奉ラン事ハサスガニ易行ゾカシ。サレド習読ネバ ヨマデゾアル。一偈ヲ持チ奉人ハ是即信心ハスクナク テ仏説ヲ疑ヒ。見聞ハ深テ微少ノ行ト人目ヲ恥ナ ルベシ。是極テ愚ナル事也。只一文一句成トモ。ウエタ ルニ水ヲノムガ如ク難遇難聞思ヲナシテ縁ヲ結 ヒタテマツルベシ。 近来ノ事ニヤ或智者ノヲチ ブレテ子ナドアマタ持タルアリケリ。児ムマレテ物/n10r 云程ニナリヌレバ。定レル事ニテ必法華経ノ首題ノ 字ヲ教テカタノ様ナレト是ヲ唱サス。生レテ四五ニモ ナリヌレバ。堪ニ随テ一品一巻マデモ一句ツツ口マネ ヲシテ読セケリ。人其故ヲ問ケレバ。此経ハ仏出世 ノ本懐ナリ。此子共若命ミジカクテ雅テ死事モ アラバ何ヲカハ人界ニ生タル験トセン。実ニ宝ノ山ニ 入テ空ク出カ如シ。カカレバ急キ縁ヲムスバスルナリ トゾ云ケル。大方サルベキ見物ナドノ時。見テモサリ アヘズ人ノ集レルヲ見ルトキハ。人界ノ生ガタキ事モ 覚ヘネド実ニハ又戒全持テ生ト云ヘバ。イト難カル/n10l ヘキ事ニコソアレ。今ノ世ノ人ヲ見レバ一戒ナヲ持ガ タシ。況ヤ又五戒ヲヤ。只朝夕三悪道ノ業ヲノミ 作ル。カカレドサスガニ人ノタネモ絶ヌ事ハ只此経ノ ヒロマレル故ナリ。宝塔品ニ此経難持若暫持者乃 至是名持戒ト云。其心ハシバシモ此経ヲ持者ハ破戒ナ レド持戒ナリト云ナリ。実ニタノモシキ事也。但若暫 モ信心フカクテタモツベクハ。其モカタクヤ思ベキニ同 文ノツツキニ是則勇猛是則精進トアレバ心ユルク懈 怠ナラン人ノ為ニ説レタル文ト見ヘタリ。惣テハ濁リ フカキ末ノ世ニ。此経ヲサナガラ通利スル人ハ。オホロ/n11r ケノ宿善トハ覚ヘズ。現身ニ其証ヲモ経。臨終ニ瑞相 モアラハルベケレドモ。必シモシカラズ。此世ニハ持経者 ハ多テ其行儀トトノヲリガタシ。又殊ナル験モナシ。人 ノ信ヲ発サヌモ自是ヲコル事ナリ。ゲニイトアヤシキ ヲ能思ヘバ世々ニ値遇シ奉ル力ニテ無智文盲ナ ル人モヲノヅカラ通利ス。生々ニ名利ノ為ニシテ。実 ノ心ヲオコササリケル故。生死ニモ留リ其威儀モカ ケタルナメリトノミ覚ヘ侍。サリトテユメユメ是ヲ軽 シムベカラズ金ハ藁ニツツメリトテモ直スクナカラズ。 況ヤ過去ノ結縁ト尽未来ノ得道以カカルベキ故也/n11l