発心集 ====== 第六第12話(74) 郁芳門院の侍、武蔵野に住む事 ====== ===== 校訂本文 ===== 西行法師、東(あづま)の方修行しける時、月の夜、武蔵野を過ぐることありけり。 ころは八月十日あまりなれば、昼のやうなるに、花の色々露を帯び、虫の声々風にたぐひつつ、心も及ばずはるばると、中に、経の声聞こゆ。 いとあやしく聞きて、驚かれて、声を尋ねて、行きて見れば、わづかに一間ばかりなる庵あり。萩・女郎花をかこひにして、薄・かるかや・荻などを取りまぜつつ、上には葺(ふ)けり。その中に、年たけたる枯れ声にて、法華経をつづり読む。 いとめづらかに思えて、「いかなる人の、かくては」と問ひければ、「われは、昔、郁芳門院((白河院皇女媞子内親王))(いふはうもんゐん)の侍(さぶらひ)の長(をさ)なりしが、隠れさせおはしませし後、やがてさまを変へて、人に知られざらむ所に住まん心ざし深くて、いづちともなくさすらひ歩(あり)き侍りしほどに、さるべきにやありけむ、この花の色々をよすがにて、野中に泊り住みて、おのづから多くの年を送り、もとより秋の草を心にそめ侍りし身なれば、花なき時はその跡を忍び、このごろは色に心をなぐさめつつ、愁(うれ)はしきこと侍らず」と言ふ。 これを聞くに、ありがたくあはれに思えて、涙を落して、さまざま語らふ。「さても、いかにしてか、月日を送り給ふ」と問へば、「おぼろけにて里などにまかり出づることもなし。おのづから人のあはれみを待ちて侍れば、四五日むなしき時もあり。大方は、この花の中にて煙立てんことも本意(ほい)ならぬやうに思えて、常には、朝夕のさまにはあらず」とぞ語りける。 いかに心澄みけるぞ、うらやましくなむ。 ===== 翻刻 ===== 郁芳門院侍住武蔵野事/n26l 西行法師東ノ方修行シケル時。月ノ夜武蔵野ヲ過 ル事アリケリ。比ハ八月十日アマリナレハ昼ノヤウナル ニ。花ノ色々露ヲ帯虫ノ声々風ニタグヒツツ心モ及 バスハルハルト中ニ経ノ声キコユイトアヤシク聞テ驚 カレテ声ヲ尋テ行テ見レバ。僅ニ一間バカリナル菴ア リ。萩女郎花ヲカコヒニシテ。薄カルカヤ荻ナドヲ 取マゼツツ上ニハフケリ。其中ニ年タケタルカレ声ニ テ法華経ヲツツリ読イトメヅラカニ覚ヘテ。イカナ ル人ノカクテハト問ケレバ。我ハ昔郁芳門院ノ侍ノ 長ナリシガ隠レサセオハシマセシ後。軈テサマヲカヘ/n27r テ人ニシラレザラム所ニスマン心サシ深クテ。イツチト モナク徘徊アリキ侍シ程ニサルベキニヤアリケム此 花ノ色々ヲヨスガニテ野中ニトマリ住テ。ヲノツカラ 多ノ年ヲ送リ。モトヨリ秋ノ草ヲ心ニソメ侍シ身ナ レハ花ナキ時ハ其跡ヲシノビ。此比ハ色ニ心ヲナグサメ ツツ愁シキ事侍ラスト云。是ヲ聞ニアリガタク哀 ニ覚ヘテ涙ヲ落シテ。サマサマ語フ。サテモイカニシテカ 月日ヲ送給ト問ヘバ。オボロケニテ里ナトニ罷出事 モナシ。ヲノツカラ人ノ哀レミヲ待テ侍レバ四五日ム ナシキ時モアリ。大方ハ此花ノ中ニテ烟立ン事モ/n27l 本意ナラヌヤウニ覚ヘテ常ニハ朝夕ノサマニハア ラズトソ語ケル。イカニ心スミケルゾウラヤマシ クナム/n28r