発心集 ====== 第二第4話(16) 三河聖人寂照、入唐往生の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 三河の聖といふは、大江定基といふ博士これなり。 三河守になりたりける時、もとの妻(め)を捨てて、たぐひなく覚えける女をあひ具して下りけるほどに、国にて、女、病を受けて、つひにはかなくなりにければ、歎き悲しむことかぎりなし。 恋慕のあまりに、取り捨つるわざもせず、日ごろ経るままに、なりゆくさまを見るに、いとど憂き世のいとはしさ思ひ知られて、心を発(おこ)したりけるなり。 頭おろしてのち、乞食し歩(あり)きけるに、「わが道心は、まことに発(おこ)りたるやと、こころみん」とて、妻のもとへ行きて、物を乞ひければ、女、これを見て、「われに憂き目見せし報ひに、かかれとこそは思ひしか」とて、うらみをして向ひたりけるが、何とも思えざりければ、「御徳に仏になりなむずること」とて、手をすり悦びて、出でにけり。 さて、かの内記の聖((寂心。慶滋保胤。[[h_hosshinju2-03]]参照。))の弟子になりて、東山如意輪寺に住む。そののち、横川に上りて、源信僧都に会ひ奉りてぞ、深き法(みのり)をば習ひける。 かくて、つひに唐へ渡つて、いひしらぬ験(しるし)どもあらはしたりければ、大師の名を得て、「円通大師」と申しける。 往生しけるに、仏の御迎ひの楽を聞きて、詩を作り、歌を詠まれたりける由(よし)、唐より注(しる)し送りて侍り。   笙歌遥聞孤雲上 (笙歌(せいか)遥に聞こふ((送りがなは底本ママ))孤雲の上)   聖衆来迎落日前 (聖衆来迎す落日の前)   雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんひが耳かもし ===== 翻刻 ===== 三河聖人寂照入唐往生事 参河ノ聖ト云ハ大江定基ト云博士是也。参河守 ニ成タリケル時。モトノ妻ヲ捨テ。タグヒナク覚ヘケル 女ヲ相具シテクダリケル程ニ。国ニテ女病ヲ受テツヒニ ハカナク成ニケレバ。ナゲキ悲シム事限無シ。恋慕ノアマ リニ取スツルワサモセズ日比フルママニ。成行サマヲミ ルニイトトウキ世ノイトハシサ思シラレテ心ヲ発タリケ ル也。カシラヲロシテ後乞食シアリキケルニ。我道心ハ実 ニ発タルヤト心見トテ。妻ノモトヘ行テ物ヲコヒケ レハ。女是ヲ見テ我ニウキメミセシ報ニカカレトコソハ思/n9l シカトテ。ウラミヲシテ向タリケルガ。何トモオボヘサリケ レバ御トクニ仏ニナリナムスル事トテ手ヲスリ悦テ出ニ ケリ。サテ彼内記ノ聖ノ第子ニ成テ。東山如意輪 寺ニスム。其後横川ニ上リテ源信僧都ニアヒ奉テソ 深キ法ヲハ習ケル。カクテ終ニ唐ヘ渡テイヒシラヌ験 トモアラハシタリケレバ。大師ノ名ヲ得テ円通大師ト申 ケル。往生シケルニ仏ノ御迎ノ楽ヲ聞テ詩ヲ作歌ヲ読 レタリケル由唐ヨリ注ヲクリテ侍リ 笙歌遥聞孤雲上 聖衆来迎落日前 雲ノ上ニハルカニ楽ノヲトスナリ人ヤ聞ランヒガ耳カモシ/n10r