[[index.html|古今著聞集]] 魚虫禽獣第三十 ====== 698 近ごろ常陸国多珂の郡に一人の上人ありけり大きなる猿を飼ひけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 近ごろ、常陸国多珂(たか)の郡に一人の上人ありけり。大きなる猿を飼ひけり。件(くだん)の上人、如法経(によほふきやう)書かんとて、楮(かうぞ)をこなして料紙漉きける時、この猿に向ひて、「なんぢ人なりせば、これほどの大願に助成などはしてまし。『畜生の身、口惜し』とは思はぬか」と言ひたりければ、猿、うち聞きて、何とか言ふらん、口をはたらかせ((「はたらかせ」は底本「さたらかせ」。諸本により訂正。))とも聞き知る人なくて、かくてその夜、猿失せにけり。朝に求むれども、すべて行方(ゆきかた)を知らず。 はやく、この猿、他の郡へ行きてけり。ある人のもとに、白栗毛なる馬を飼ひたる馬屋に至りて、件の馬を盗みてけり。いづくにてか取りたりけん、下臈の着る手なしといふ布着物着て、鎌腰にさして、編笠をなん着たりける。その馬にうち乗りて、聖のもとへ行きけるを、馬主(うまぬし)追ひて来けり。 猿、かねてその心を得て、人はなれの山の岨(そわ)・野中などを来ければ、馬主も見合はで、人に問ひければ、「その山の岨、その野の中をこそ、十四・五ばかりなる童は、その毛の馬に乗りて行きつれ」と答へければ、その道にかかりて追ひて行くに、はやく馬主の来ざりけるさきに、この猿、聖のもとに来て、馬繋ぎて、内とか言ふらん、聖に向ひてさまざまにくどきごとをしける折節、馬主、追ひて来たりけり。 上人、この次第を、ありのままに始めより語りて、猿を見ければ、馬主、「かくほどの不思議にて候はんには、いかでかこの馬返し給ひ候ふべき。畜生だにも如法経((「如法経」は底本「女法々経」。諸本により訂正。))の助成の志候ひて、かかる不思議をつかうまつりて候ふに、まして人倫の身にて、などか結縁(けちえん)し奉らざらむ。すみやかに、この馬をば法華経に奉るべし」と言ひて帰りにけり。情けある馬主なり。 このこと、さらにうきたることにあらず。「まさしくその猿見たりし」とて、語り申す人侍り。このことは、畠山庄司次郎((畠山重忠))が討たれし((「討たれし」は底本「うれし」。諸本により訂正。))年のことになん侍りける。(建仁二年壬戌の年なり。) ===== 翻刻 ===== 近比常陸国たかの郡に一人の上人ありけり大なる/s544l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/544 猿を飼けり件上人如法経かかんとてかうそをこなし て料紙すきけるときこの猿にむかひて汝人なり せはこれ程の大願に助成なとはしてまし畜生の 身くちおしとは思はぬかといひたりけれは猿うちききて なにとかいふらん口をさたらかせともききしる人なくて かくて其夜猿うせにけり朝にもとむれともすへて ゆきかたをしらすはやく此猿他の郡へ行てけり或 人のもとに白栗毛なる馬を飼たる馬屋にいたりて 件馬を盗てけりいつくにてかとりたりけん下臈の きる手なしといふ布き物きてかまこしにさしてあみ 笠をなんきたりける其馬にうち乗て聖のもとへ/s545r 行けるを馬ぬしをいてきけり猿かねて其心をえ て人はなれの山のそわ野中なとをきけれは馬ぬし も見あはて人に問けれは其山のそは其野の中を こそ十四五はかりなる童はその毛の馬に乗て行 つれとこたへけれは其道にかかりて追てゆくにはや く馬ぬしのこさりけるさきに此猿ひしりのもとに きて馬つなきてなにとかいふらん聖にむかひて さまさまにくとき事をしけるおりふし馬ぬし追てき たりけり上人この次第をありのままにはしめより かたりて猿を見けれは馬ぬしかく程の不思議にて 候はんにはいかてか此馬返し給候へき畜生たにも女/s545l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/545 法々経の助成の志候てかかる不思儀をつかうまつり て候にまして人倫の身にてなとか結縁したてまつ らさらむ速にこの馬をは法華経にたてまつるへ しといひてかへりにけりなさけある馬ぬしなりこの 事さらにうきたることにあらすまさしく其猿 みたりしとてかたり申す人侍りこの事は畠山庄 司次郎かうれし年の事になん侍ける(建仁二年壬戌年也)/s546r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/546