[[index.html|古今著聞集]] 宿執第二十三 ====== 488 保延年中より中院右大臣は左大将徳大寺左大臣は右大将にて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 保延年中(崇徳((崇徳天皇)))より、中院右大臣((源雅定))は左大将、徳大寺左大臣((藤原実能))は右大将にて、あひ並び給ひけるほどに、仁平四年五月二十八日に、右大臣、出家し給ひぬ。 かくて年月を過ぐしけるに、保元の乱れ出で来て、ほどなくしづまりにければ、左大臣の世おぼえいとどめでたくおはしけるが、いくほども仕へ給はで、病づきてあやふくおはしければ、保元二年七月十五日、出家し給ひて、菩提院((仁和寺))にわたり給ひけるに、墨染の衣袴をぞ着給ひたりける。蔵人五位一人・僧一人、御車の後にうちたりけり。 さて、右府入道((源雅定))のとぶらひにおはしたりけるに、御子の大炊御門((藤原公能))、右府の大将にておはしましけるして、中院右府入道殿に申し給ひけるは、「見参し奉るべけれども、左右の大将にて等しくあひ並び奉りたりしに、わが身は病にしづみて後、出家しては侍れども、今日明日とも知らず侍り。それには思し召すさまに出家遂げ給ひて、かく強くおはしますに、狼藉(らうぜき)にて見え奉らむこと、なほ本意なかるべければ、万が一このたび命生きて侍らば、それへ参るべし」と申されければ、「なほ執おはしますものかな」と、右府入道思ひ給ひて帰り給ひければ、大将、砌(みぎり)におり立ちて、深く礼節ありて、公保大納言((藤原公保))の中将にておはしましける、門のもとまで送り申されけり。 左府入道((藤原実能))は、九月二日つひに失せ給ひにけり。六十二にぞなり給ひける。この左府入道は花園左大臣((源有仁))の御ゆづりにて右府入道をこえて大将になり給ひたりしに、その恨みをも忘れて、かやうにとぶらひ申されける、あはれにありがたきことなり。 ===== 翻刻 ===== 保(崇徳)延年中より中院右大臣は左大将徳大寺左大臣は 右大将にてあひならひ給けるほとに仁平四年五月廿八日/s389l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/389 に右大臣出家し給ぬかくてとし月をすくしけるに 保元のみたれいてきてほとなくしつまりにけれは左大 臣の世おほえいととめてたくおはしけるかいく程もつ かへ給はて病つきてあやうくおはしけれは保元二年 七月十五日出家し給て菩提院にわたり給ひけるに 墨染の衣袴をそき給たりける蔵人五位一人 僧一人御車の後にうちたりけりさて右府入道の とふらひにおはしたりけるに御子の大炊御門右府の大 将にておはしましけるして中院右府入道殿に 申給けるは見参したてまつるへけれとも左右の 大将にてひとしくあひならひたてまつりたりしに/s390r 我身は病にしつみて後出家しては侍れともけふ あすともしらす侍りそれにはおほしめすさまに出家 とけ給てかくつよくおはしますに狼藉にて見え たてまつらむ事猶本意なかるへけれは万か一此た ひ命いきて侍らはそれへまいるへしと申されけれは なを執おはします物かなと右府入道思給てかへり 給けれは大将砌におりたちてふかく礼節ありて 公保大納言中将にておはしましける門のもとまてをく り申されけり左府入道は九月二日つゐにうせ給ひ にけり六十二にそなり給ける此左府入道は花 園左大臣の御ゆつりにて右府入道をこえて大将に/s390l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/390 なり給たりしにその恨をもわすれてかやうに とふらひ申されけるあはれにありかたき事也/s391r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/391