[[index.html|古今著聞集]] 宿執第二十三 ====== 481 いづれの年のことにかありけむ高陽院にて競馬ありけるに・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== いづれの年のことにかありけむ、高陽院(かやのいん)にて競馬(くらべうま)ありけるに、狛助信乗尻(のりじり)に入りにけり。ゆゆしき上手にて、たびたびつかうまつりけれども、いまだ負けぬ者なりけり。 鞭の加持をその時の御室に申したりければ((「たりければ」は底本「けりけれは」。諸本により訂正。))、「このたびは負けよ」と思し召すよしを仰せられければ、助信そのゆゑを尋ね申せば、「このたび勝ちなば、命あるべからず」と仰せられけり。助信、ただ勝ちて死ぬべきよしを、しひて申し入れければ、加持して給はせてけり。 その日になりて、尾張の種武((秦種武か。))に合ひて勝ちにけるが、馬場末に門のありけるが開きたりけるに、関(くわん)の木のさし出でたりけるに、頸をかけて落ちて死にけり。禄をば移しにぞかけられける。 種武は脇白(わきしろ)といふ馬に乗りたりけり。究竟(くつきやう)の馬にてありければ、乗りける者いまだ負けざりけるに、このたび種武乗りて、初めて負けにけり。脇白、馬場の末にて、種武を跳ね落として食ひ殺してけり。かの番(つがひ)、二人ながら同時に死にけり。不思議のことなり。 このこと、いづれの日記に見えたりといふこと確かならねど、かく申し伝へたり。江帥((大江匡房))の記されたるは、宇治殿の御記((藤原頼長の『台記』を指す。以下「昔有駿馬・・・」は、『台記』に見られる匡房の著書からの引用。))に、「昔有駿馬。負競馬、食殺其乗尻。到坂東成神云々。(昔駿馬有り。競馬に負け、その乗尻を食ひ殺せり。坂東に到りて神と成る云々)」。 かかるためしも侍りけるにこそ。 ===== 翻刻 ===== いつれのとしの事にかありけむ高陽院に て競馬ありけるに狛助信のりしりに入 にけりゆゆしき上手にてたひたひつかう まつりけれともいまたまけぬものなりけり 鞭の加持を其時の御室に申けりけれは このたひはまけよとおほしめすよしをおほせ/s384l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/384 られけれは助信そのゆへをたつね申せはこの たひかちなは命あるへからすとおほせられけ り助信たた勝てしぬへきよしをしゐて申 入けれは加持してたまはせてけりその日に なりて尾張の種武にあひて勝にけるか馬 場すゑに門のありけるかあきたりけるに関 の木のさしいてたりけるに頸をかけて落て 死にけり禄をは移にそかけられける種武は わきしろといふ馬にのりたりけり究竟の 馬にてありけれは乗ける物いまたまけさりける にこのたひ種武のりてはしめてまけにけり/s385r 脇白馬場の末にて種武をはねおとしてくひ ころしてけりかのつかひ二人なから同時に死 にけりふしきの事也此事いつれの日記に見え たりといふことたしかならねとかく申つたへたり 江帥のしるされたるは宇治殿御記に昔有駿馬 負競馬食殺其乗尻到坂東成神云々かかるためし も侍りけるにこそ/s385l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/385