[[index.html|古今著聞集]] 哀傷第二十一 ====== 469 従二位家隆卿は若くより後世の勤めなかりけるが・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 従二位家隆卿((藤原家隆))は、若くより後世の勤めなかりけるが、嘉禎二年十二月二十三日、病にをかされて出家、七十九にてなられける。やがて、天王寺((四天王寺))へ下りて、次の年、ある人の教へによりて、にはかに弥陀の本願に帰して、他事なく念仏を申されけり。 四月八日、宿執やもよほされけん、七首の和歌を詠ぜられける、   契りあれば難波の里に宿りきて波の入り日を拝みつるかな   なはの海を((底本「海の」に「を」と傍書。傍書を採る。))雲居になしてながむれば遠くもあらず弥陀の御国は((「御国は」は底本「御国へ」。諸本により訂正。))   二つなく頼む誓ひは九品(ここのしな)のはちすの上の上もたがはず   八十(やそぢ)にてあるかなきかの玉の緒はみださですぐれ救世(ぐぜ)の誓ひに   憂きものとわが故郷(ふるさと)を出でぬとも難波の宮のなからましかば   阿弥陀仏(あみだぶ)と十たび申して終りなば誰も聞く人導かれなん((「導かれなん」は底本「みちひかれなは」。諸本により訂正。))   かくばかり契りまします阿弥陀仏を知らず悲しき年を経にける かくて九日、かねてその期(ご)を知りて、酉の刻に端座合掌して終はられにけり。本尊をも安置せざりけり。「ただ今、生身の仏来迎し給はんずれば、本尊よしなし」とぞ言はれける。さて、いただき洗ひて、よき筵(むしろ)など敷かせられける。 親父(しんぶ)身まかりて次の年、服脱ぎて侍りて後、伊勢に下りて侍りしに、いくほどなくて、母た身まかりにしかば、急ぎ上りて侍りしに、隆佑((藤原隆佑。家隆の長男。))のもとより、   立ち帰り藤の衣やしぼるらん尽くし果てにし涙と思へば   いかばかりをりしく波に立ちにけん人もかれにし伊勢の浜荻 ===== 翻刻 ===== 従二位家隆卿はわかくより後世のつとめなかりける か嘉禎二年十二月廿三日病におかされて出家七十九 にてなられけるやかて天王寺へくたりて次年或人 の教によりて俄に弥陀の本願に帰して他事なく 念仏を申されけり四月八日宿執や催されけん七首 の和哥を詠せられける  契あれは難波の里にやとりきて波の入日をおかみつる哉  なはの海の(を)雲井になしてなかむれは遠くもあらす弥陀の御国へ/s366l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/366  二なくたのむちかひは九品のはちすのうへのうへもたかはす  八十にてあるかなきかの玉のをはみたさてすくれ救世の誓に  うきものと我ふる郷をいてぬとも難波の宮のなからましかは  阿弥陀仏と十たひ申てをはりなは誰もきく人みちひかれなは  かくはかり契ましますあみたふをしらすかなしき年をへにける かくて九日かねてその期をしりて酉剋に端坐合掌 して終られにけり本尊をも安置せさりけりたた 今生身の仏来迎し給はんすれは本尊よしなし とそいはれけるさていたたきあらひてよきむしろな としかせられける 親父身まかりて次の年服ぬきて侍てのち伊勢に下て/s367r 侍しにいく程なくて母又身まかりにしかはいそきのほり て侍しに隆佑のもとより  立帰り藤の衣やしほるらんつくしはてにし涙とおもへは  いかはかりおりしく波に立にけん人もかれにしいせの浜荻/s367l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/367