[[index.html|古今著聞集]] 相撲強力第十五 ====== 382 鳥羽院の御代相撲の節の後帥中納言長実卿のもとへ・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 鳥羽院((鳥羽天皇))の御代、相撲の節の後、帥中納言長実卿((藤原長実))のもとへ、小熊権守伊遠と聞こゆる相撲、息男伊成を具して参りたり。 さるべき方へ召し入れて、酒など勧めらるるに((「に」は底本「にに」。諸本により訂正。))、弘光といふ相撲また来けり。同じく召し加へて、盃酌たびたびに及ぶ間、弘光、酒狂の言葉を出だすあまりに、亭主の卿に向ひて申す。「近代の相撲は、勢(せい)など大きになりぬれば、左右なく最手(ほて)((「最手」は底本「なて」。諸本により訂正。))をも賜はり、その脇にもまかり立つめり。昔は雌雄を決して、芸能あらはるるにつきて、昇進をもつかうまつりしかば、傍輩(はうばい)口をふさぎ、世の人これを許しき。近代はいさみなき世にも侍るかな」と申す。 伊遠、少し居直りて、「これは、ひとへに伊成がことを申すなり。不肖の身、このたびすでに最手の脇を許されぬ。まことに申さるる所のがれがたし。ただし、ちとこころみ候へ」と申すに、弘光ほほ笑みて、「ただ道理の推す所を申すばかりなり。こころみられんは、また幸ひなり」とて、左手を出だして乞ひけるを、伊成は袖をかき合はせて、かしこまりて、なほ父の気色をうかがひけるを、父、「弘光かやうに申す上は、ただこころみ候へ」と、たびたび言ひければ、弘光が出だす所の左の手を、伊成が右手して、ひしと取りてけり。弘光、引き抜かんと身を動かしけれども、たぢろがさりければ、たはぶれに((「たはぶれに」は底本「けはふれに」。諸本により訂正。))もてなして、右手を腰の刀にかけて、引き抜かんとする気色にて、ずちなげに見えければ、「今はさばかりにて候へ」と伊遠申しければ、放ちてけり。 弘光、「かやうの手合せは、さのみこそ侍れ。勝負これによるべきにあらず。ひとさしつかうまつるべし」と言ひて、隠れの方へ走り寄りて、二つの袖を引きちがへ、袴(はかま)の括(くくり)高くからみ上げて、庭へ歩み出でて、「これへ下り候へ、下り候へ」と申す。伊成は目かけながら、かしこまり居たりけるを、父伊遠、「いかに、かほどに申す上は、はやくまかり下りて、一さしつかうまつるべし」と申すに、伊成も隠れの方にて、腰からみて、庭に下りて、立ち向ひにけり。形体抜群、勇力軼人、鬼王の形((「形」は底本「かち」))を現して、力士((金剛力士))のたちまちに来たるかと覚えたり。弘光、また敵対に恥ぢずと見えける。 およそ、亭主を始めとして、諸人目を驚かし、心を騒がして、さざめきあへるほどに、伊成進み寄りて、弘光か手を取りて、前ざまへ強く引きたるに、うつぶしにまろびぬ。あへなきことかぎりもなし。 弘光、ほどなく立ち上がりて、「これはあやまちなり。今一度、さかふべし」とて、歩み寄るに、伊成、また父の気色をうかがひて進まぬを、伊遠、「ただ責め寄せてこころみ候へ」と言ひければ、また弘光が手を取りて、後ろざまに荒く突きたるに、とどこほりなく投げられて、このたびはのけざまに強くまろびぬ。 とばかりありて起き上がり、烏帽子の落ちたるを押し入れて、帥の前にひざまづきて、ほろほろと涙をこぼして、「君の見参に入り侍らんも、今日ばかりに侍り」とて、走り出でにけり。その後、やがて髻押し切りて、法師になりにけるとぞ。 法皇、このことを聞こし召して、「はなはだ穏便ならず。最手の脇などに昇進したる者をば、公家なほたやすく雌雄を決せられず。いかにいはんや、私の勝負に生涯を失なはする、狼藉の至りなり」と仰せれて、長実卿、御気色心よからざりけり。 ===== 翻刻 ===== 鳥羽院御代相撲の節の後帥中納言長実卿/s281l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/281 のもとへ小熊権守伊遠ときこゆる相撲息男 伊成をくしてまいりたりさるへき方へめし入て 酒なとすすめらるるにに弘光といふ相撲又来 けりおなしくめしくはへて盃酌度々におよふあ ひた弘光酒狂のこと葉をいたすあまりに亭主 の卿にむかひて申近代の相撲はせいなと大き になりぬれは左右なくなてをもたまはりその わきにもまかりたつめり昔は雌雄を決して 藝能あらはるるに付て昇進をもつかうまつりし かは傍輩口をふさき世の人これをゆるしき近 代はいさみなき世にも侍かなと申伊遠す/s282r こし居直りてこれはひとへに伊成か事を申也不 肖の身今度すでに最手の脇をゆるされぬ誠に 申さるる所のかれかたし但ちと試候へと申に弘光 ほほゑみてたた道理のおす所を申はかりな り心見られんは又さひわゐ也とて左手を出 してこひけるを伊成は袖をかきあはせて畏て なを父の気色をうかかいけるを父弘光かやうに 申うへはたた心み候へとたひたひいひけれは 弘光かいたす所の左の手を伊成か右手して ひしととりてけり弘光ひきぬかんと身をうこ かしけれともたちろかさりけれはけはふれにもて/s282l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/282 なして右手を腰の刀にかけて引ぬかんとする 気色にてすちなけに見えけれはいまはさはかり にて候へと伊遠申けれははなちてけり弘光 かやうの手合はさのみこそ侍れ勝負これによる へきにあらすひとさしつかうまつるへしといひて かくれのかたへはしりよりてふたつの袖を引ちかへ 袴のくくりたかくからみあけて庭へあゆみ出て これへおり候へおり候へと申伊成は目かけなから畏 居たりけるを父伊遠いかにか程に申うへははやく まかりおりて一さしつかうまつるへしと申に伊 成もかくれの方にて腰からみて庭におり/s283r て立むかひにけり形体抜群勇力軼人鬼王 のかちをあらはして力士のたちまちに来る かとおほえたり弘光又敵対に恥すと見え ける凡亭主をはしめとして諸人目をおとろ かし心をさはかしてささめきあへる程に伊成すすみ よりて弘光か手をとりてまへさまへつよく引 たるにうつふしにまろひぬあへなき事かきり もなし弘光ほとなくたちあかりてこれはあやま ち也いま一度さかうへしとてあゆみよるに 伊成又父の気色をうかかひてすすまぬを伊遠 たたせめよせて心み候へといひけれは又弘光か/s283l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/283 手をとりてうしろさまにあらくつきたるにととこ ほりなくなけられて此たひはのけさまにつよく まろひぬとはかりありてをきあかり烏帽子の おちたるをおし入て帥の前にひさまつきて ほろほろと涙をこほして君の見参に入侍らん も今日はかりに侍とて走出にけり其後やかて 本鳥おしきりて法師になりにけるとそ法皇 此事をきこしめして甚穏便ならす最手 の脇なとに昇進したる物をは公家なをたや すく雌雄を決せられす如何に況哉私の勝負に 生涯をうしなはする狼藉の至なりと仰られ/s284r て長実卿御気色心よからさりけり/s284l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/284