[[index.html|古今著聞集]] 馬芸第十四 ====== 358 保延三年八月六日仁和寺殿の馬場にて日吉御幸の内競七番ありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 保延三年八月六日、仁和寺殿の馬場にて、日吉御幸の内競(うちくらべ)七番ありけり。一院(鳥羽)((鳥羽上皇))・女院(待賢門院)((藤原璋子))・今宮((未詳))・五の宮((本仁親王))・前斎院((統子内親王))、御覧ぜられけり。左大臣((源有仁))以下参り給ひけり。 一番、左、院の将曹秦兼弘(兼久子)、右、府生下野敦延((下野敦信か。))(敦高((敦信であれば「敦言」。))子)、つかうまつりけるに、三遅の後、敦延が馬の膝より血はしりければ、他の馬を乗せかへられんがために入れられにけり。 二番、左、府生下野敦方(敦利子)、右、府生秦兼則、うち出でけるほどに、兼則おこり心地おこりて、勝負の心なかりければ、追ひ入れられて、兼弘・敦延、またうち出でにけり。 左の馬、もとより口をうちけれども、兼弘並びなき上手なりければ、馬の失をかへりみず、近くまうけて、おりかくること、十度に余りけれども、敦延、追はざりけり。兼弘、追はんとしければ、敦延、近く寄せず。かくて時を送るほどに、必ず勝負すべきよし、仰せ下されける時、兼弘追ひてけり。敦延がかちの袖を取りて、引きほころばかしたりけれども、敦延、勝ちにけり。兼弘、はじめて負けにけり。おほかた乗りやう、上下目を驚かしけり。 院、ことに御感ありて、両人ともに召されけれども、兼弘、あとをくらみて失せにけり。敦延に方人(かたうど)纏頭(てんとう)せざりければ、院、しきりに方人を召されけれども、参る者なかりけり。右方の奉行の将にて、大炊御門右大臣((藤原公能))の、中将にておはしけるぞ、女郎花の織一重を、なまじひにうちかけられける。 敦延、その禄を鞭(むち)にかけて、肩にはかけざりけり。親しき者どものありける所にて、「獅子にや似たる」と言ひたりければ、誰にてかありけん、「など」と問ひたりければ、「くれぬ物を乞ひ取りたればよ」と言ひける。憎(にく)ながら興ありとも沙汰ありける。 ===== 翻刻 ===== 保延三年八月六日仁和寺殿の馬場にて日吉御幸の 内くらへ七番ありけり一院(鳥羽)女院(待賢門院)今宮五宮前 斎院御覧せられけり左大臣以下まいり給けり一番 左院将曹秦兼弘(兼久子)右府生下野敦延(敦高子)つかう まつりけるに三遅の後敦延か馬の膝より血はしり けれは他の馬をのせかへられんかために入られにけり二 番左府生下野敦方(敦利子)右府生秦兼則うちいて ける程に兼則おこり心地おこりて勝負の心なかりけれは追 入られて兼弘敦延又打出にけり左の馬もとより口を うちけれとも兼弘ならひなき上手成けれは馬の失/s261r をかへりみすちかくまうけておりかくる事十度にあま りけれとも敦延追はさりけり兼弘おはんとしけれは 敦延ちかくよせすかくて時をおくるほとにかならす勝 負すへきよし仰下されける時兼弘おいてけり敦延か かちの袖をとりて引ほころはかしたりけれとも敦延勝 にけり兼弘はしめて負にけり大方のりやう上下 目をおとろかしけり院ことに御感ありて両人共に めされけれとも兼弘あとをくらみて失にけり敦延に 方人纏頭せさりけれは院頻に方人をめされけれとも まいる物なかりけり右方の奉行の将にて太炊御門 右大臣の中将にておはしけるそ女郎花の織ひとへ/s261l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/261 をなましゐにうちかけられける敦延その禄を鞭にかけ て肩にはかけさりけりしたしき物とものありける 所にて師子にや似たるといひたりけれは誰にてか 有けんなとと問たりけれはくれぬ物をこひとりた れはよといひけるにくなから興ありとも沙汰ありける/s262r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/262