[[index.html|古今著聞集]] 武勇第十二 ====== 337 同じ朝臣十二年の合戦の後宇治殿へ参て戦ひの間の物語申しけるを ====== ===== 校訂本文 ===== 同じ朝臣((源義家。[[s_chomonju336|336]]参照。))、十二年の合戦((前九年の役))の後、宇治殿((藤原頼通))へ参て、戦ひの間の物語申しけるを、匡房卿((大江匡房))よくよく聞きて、「器量はかしこき武者なれども、なほ軍(いくさ)の道をば知らぬ」と独り言に言はれけるを、義家の郎等聞きて、「けやけきことをのたまふ人かな」と思ひたりけり。 さるほどに、江帥((大江匡房))出でられけるに、やがて義家も出でけるに、郎等、「かかることをこそのたまひつれ」と語りければ、「さだめてやうあらん」と言ひて、車に乗られける所へ進み寄りて、会見せられけり。やがて弟子になりて、それより常に詣でて、学問せられけり。 その後、永保の合戦((後三年の役))の時、金沢城を攻めけるに、一行(ひとつら)の雁飛の去りて、刈田の面に降りんとしけるが、にはかに驚きて、行(つら)を乱りて飛び帰りけるを、将軍怪しみて、轡(くつばみ)を押さへて、「先年、江帥の教へ給へることあり。『それ軍、野に伏す時は、飛雁行を破る』。この野に必ず敵伏したるべし。搦手(からめて)を回すべき」よし、下知せらるれば、手を分かちて、三方をまく時、案のごとく三百余騎を隠し置きたりけり。 両陣乱れあひて戦ふことかぎりなし。されども、かねてさとりぬることなれば、将軍の軍、勝ちに乗りて、武衡((清原武衡))等か軍、破れにけり。 「江帥の一言なからましかば、危なからまし」とぞ言はれける。 ===== 翻刻 ===== 同朝臣十二年合戦之後宇治殿へ参てたたかひの間 の物語申けるを匡房卿よくよく聞て器量は賢き武 者なれとも猶軍の道をはしらぬと独事にいはれけるを 義家の郎等聞てけやけき事をのたまふ人かな と思ひたりけりさる程に江帥いてられけるに やかて義家も出けるに郎等かかる事をこそのたま ひつれとかたりけれは定て様あらんといひて車に のられける所へすすみよりて会見せられけりやかて 弟子になりて其より常にまうてて学問せられけり 其後永保の合戦の時金沢城をせめけるに一行の雁 飛さりて苅田の面におりんとしけるか俄におとろきてつ/s246l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/246 らをみたりて飛帰けるを将軍あやしみてくつはみを おさへて先年江帥のおしへ給へる事あり夫軍野に 伏す時は飛雁つらをやふる此野にかならす敵ふし たるへしからめてをまはすへきよし下知せらるれは手 をわかちて三方をまく時あんのことく三百餘騎を かくし置たりけり両陣みたれあひてたたかふ事 限なしされ共かねてさとりぬる事なれは将軍の いくさ勝に乗て武衡等かいくさ破にけり江帥の一 言なからましかはあふなからましとそいはれける十/s247r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/247