[[index.html|古今著聞集]] 好色第十一 (なよ竹物語・鳴門中将物語)
====== 331 第八十七代の皇帝後嵯峨天皇と申すは土御門天皇の第三の皇子なり・・・ ======
===== 校訂本文 =====
第八十七代の皇帝、後嵯峨天皇と申すは土御門天皇の第三の皇子なり。父の御門、寛喜三年遠所にて御事ありし後は、御傅(めのと)大納言通方卿((源通方))のもとに、かすかなる御住まひにてわたらせ給へば、御位のことは思し召しも寄らず、大納言さへ身まかりにければ、仁治二年の冬のこと、八幡((石清水八幡宮))へ参らせ給ひて、御出家の御暇(いとま)申させ給ひけるに、暁、御宝殿の内に、「徳是北辰。椿葉影再改。(徳はこれ北辰。椿葉の影再び改まる。)」と、鈴の声のやうにて、まさしく聞こえさせ給ひければ、「これこそ示現ならめ」と嬉しく思し召して、還御ありけり。もとの通成中将((源通成。通方の次男。))の亭へは入らせ給はで、御祖母承明門院の土御門の御所へ入らせ給ひて、その年も暮れにけり。
同じき三年正月九日、四条天皇十二歳、禁中にして御事あるよし、ののしりければ、「後堀河院((後堀河天皇))の御方には、御位につかせ給ふべき宮もおはしまさず。さだめて佐渡院((順徳天皇))の宮たちぞ践祚(せんそ)あらんずらん」とて、聞き分きたることはなけれども、時の卿相雲客(けいしやううんかく)、四辻の修明門院((後鳥羽天皇皇后藤原重子))へ参り集ふといへども、天照大神の御はからひにや侍りけん、同じき十九日、関東より城介義景((安達義景))、早打ちに上りて、ひそかに承明門院へ参りて、「御位は阿波院の宮((邦仁親王。後の後嵯峨天皇。))と定め申し侍るなり。公家にはいかが御はからひも侍らん」と申して、やがて((「やがて」は底本「やりて」。諸本により訂正。))法性寺殿((九条道家))・一条大相国((藤原実経))へも申し入れて下りぬ。京中の上下、慌て騒ぎて、今さらに土御門女院へ、われもわれもと参り集ふ。
ある人、御直衣をとりあへず参らせたりければ、「この直衣は、ことのほかに小さし。異人(ことひと)の料(れう)にやあらん」とぞ仰せられける。「『佐渡院の宮へ参らせん料にてこそありつらめ』と思し召し知らせ給ひけるにや」と涙をおさへて、とかく申す人なかりけり。
同じき二十日の夜、御元服。やがて内裏へ入らせ給ふ。四条大納言隆親卿((藤原隆親))の家、冷泉万里小路の里内裏なり。三月十八日、御年二十三にて、太政官庁にて即位あり。六月六日、前右大臣の女((西園寺姞子))、女御に参り給ふ。後には大宮女院と申して二代((後深草天皇・亀山天皇))の国母におはします。女御にも、しかるべき人、このかぎり参り給ふ。賤しき女などは、御目にだにもかからず。昔立ち返りて、御政(おんまつりごと)めでたく、御心用ゐもよろづ巧みにおはしますあまり、大井の山荘を仙居に移しおはします。造営のことは、権大納言実雄卿((藤原実雄))の沙汰とぞ聞こえし。水の心ばへ、山の気色、めづらかにおもしろき((「おもしろき」は底本「おりしろき」。諸本により訂正。))所がらなり。東は広隆寺・ときはの森、西は前中書王((醍醐天皇皇子兼明親王))の古き跡・小倉山の麓(ふもと)、わざと山水を湛へざれども、自然の勝地なり。南は大井川遥かに流れて、法輪寺の橋斜めなり。北は生身二伝の釈尊、清涼寺におはします。眺望四方(よも)にすぐれて、仏法流布の所なり。かかる藐姑射(はこや)の山をしめ給ふ御事も、この院の御時なり。
いづれの年の春とかや、弥生花の盛りに、和徳門の御つぼにて、二条前関白((藤原良実))・大宮大納言((藤原公相))・兵部卿((源有数))・三位頭中将((藤原師継))など参りて、御鞠(おんまり)侍りしに、見物の人々に交りて、女どもあまた見え侍る中に、内((後嵯峨天皇))の御心寄せに思し召すありけり。鞠は御心にも入れさせ給はで、かの女房の方をしきりに((「しきりに」は底本「頻し」。諸本により訂正。))御覧ずれば、女、わづらはしげに思ひて、うちまぎれて、左衛門の陣の方へ出でにけり。
六位を召して、「この女の帰らん所、見おきて申せ」と仰せられければ、蔵人追ひ付きて見るに、この女房心得たりけるにや、「いかにも、この男すかしやりてん」と思ひて、蔵人を招き寄せ、うち笑ひて、「『なよ竹の』と申させ給へ。あなかしこ、御返事承らんほどは、ここにて待ち参らせん」と言へば、すかすとは思ひも寄らず、「ただ数寄あひ参らせんとするぞ」と心得て、急ぎ参りて、このよし申せば、「さだめて古歌の句にてぞあるらん」とて、御尋ねありけれども、その庭にては知る人なかりければ、為家卿((藤原為家))のもとへ御尋ねありけるに、とりあへぬほどに、古き歌とて、
高しとて何にかはせんなよ竹のひとよふたよのあだのふしをば
と申されければ、いよいよ心憎く思し召して、御返事はなくて、「ただ女の帰らん所を確かに見て申せ」と仰せありければ、立ち帰り、ありつる門を見るに、なじかはあらん、見えず。また参りて、「しかじか」と奏するに、御気色悪しくて、尋ね出ださずは科(とが)あるべきよし、仰せらる。蔵人、青ざめてまかり出でぬ。このことによりて、御鞠もことさめて入らせ給ひぬ。その後は苦々しく、まめだたせ給ひて、心苦しき御事にて侍りける。
ある時、兵衛殿((藤原兼経))・二条殿((藤原良実))・花山院大納言定雅((藤原定雅))・大宮大納言公相・権大納言実雄((藤原実雄))・中納言通成((源通成。底本「成」なし。諸本により訂正。))など参り給ひて御遊ありけれども、先々のやうにもわたらせ給はず、ものをのみ思し召すさまにて、御ながめがちなれば、近衛殿、御土器(かはらけ)を勧めさせ給ふついでに、「まことにや、ちかごろ行く方知らぬ宿の蚊遣火(かやりび)にこがれさせおはします、聞こえ侍り。高力士に勅(みことのり)して尋ねさせ給はん。隠れあらじものを。蓬莱までも通ふ幻(まぼろし)のためしも侍り(([[:text:kara:m_kara018|唐物語18]]参照。))。まして都(みやこ)の内のことなれば、さすがやすかりぬべし」とて、御酒(みき)参らさせ給ふに、内も少しうち笑はせ給へども、さして興ぜさせ((「興ぜさせ」は底本「興せきせ」。諸本により訂正。))給はず。そぞろかせ給ひて、入らせ給ひぬ。
その後、蔵人は至らぬくまなく、「もしや会ふ」とて求め歩(あり)きつつ、仏神にさへ祈り申せどもかひなし。思ひわびて、「文平((紀文平))と申す陰陽師こそ、このごろ、掌(たなごころ)をさして推察まさしかなれ。このこと占はせん」と思ひて、まかり向ひて問ひければ、「これは内々承り及べり。ゆゆしき御大事なり。文平が占ひは、これにてこころみ給ふべし。火の曜(えう)を得たり。神門なり。今日は巳の日なり。巳は蛇(くちなは)なり。このことを推するに、一旦の隠れなり。つひには会はせ給ふべし。ただし、火の曜は、夏の季に至りて御悦びあるべし。蛇なれば、もとの穴に入りて、もとの所に出づべし。夏のうちに、隠れけん所にて、必ず会はせ給ふべし」と言ひけり。文平も凡夫なれば、一定(いちぢやう)頼むべきにはあらねども、むげに上(うは)の空なりつるよりは、頼もしき方出で来ぬる心地して、常は左衛門の陣の方にぞたたずみける。
五月十三日、最勝講の開白(かいびやく)の日、この女、ありしさまをあらためて、五人つれて、ふと行き合ひぬ。蔵人、あまりの嬉しさに、夢うつつとも覚えず、「怪しまれじ」と思ひて、人にまぎれて見ければ、仁寿殿の西の庇(ひさし)に並みゐて聴聞す。講果ててひしめかん時、「また失なひては、いかがせん」と思ひて、経任の殿上の口におはする所にて、「このこと、しかじか奏し給へ」と語らへば、「ただ今、宮ひと所に御聴聞のほどなり。こちたし」と申しければ、力及ばず。「伝奏の人やおはする」と見れどもおはせず。
一位殿、わが御局(みつぼね)の口に女房ともの仰せらるるを見あひ参らせて、かしこまりて申しけるは、「推参に侍れども、天気にて侍り。しかじかのこと、急ぎ奏し給へ」と申しければ、かねて聞こえあることなれば、やがて奏し申させ給ふに、女房して、「神妙(しんべう)なり。かまへてこのたびは不覚せで、行く方を確かに見おきて申せ」と仰せらるるほどに、講果つれば、夕暮れにもなりぬ。この女ども、一つ車にて帰るめり。蔵人、「わが身は怪しまれじ」と思ひて、さかさかしき女を付けて、見入れさすれば、三条白川に、なにがしの少将といふ人の家なり。
このよしを奏するに、やがて御文あり。
「あだに見し夢かうつつかなよ竹のおきふしわぶる恋ぞ苦しき
この暮れに必ず」とばかりあり。
蔵人、御書を給ひて、かの所に持て行くに、男ある人なれば、わづらはしうて歎くに、御使、心もとなくて、返事を責むれば、「いかにも隠れあらじ」と思ひて、ありのままに語れば、少将、さすがにわづらはしげに思ひて、「男の身にて、さうなく参らせんもはばかりあり。あなかしこといさめんも、便なかるべきことなり。人によりてこと異なる世なれば、一つは名聞なり。人のそしりは、さもあらばあれ。とくとく参らせ給へ」と勧むるに、女うち歎きて、かなふまじきよし、かへすがへす否(いな)びければ、少将、申しけるは、「この三年(みとせ)がほど、おろかならず思かはして過ぎぬるも、世々の契なるべし。今さら召され給ふも、浅からぬ御契ならんかし。やうやうしくて参り給はずは、さだめて悪しざまなることにて、わが身も置き所なきことにもなりぬべし。よも悪しくははからひ申さじ。とくとく参り給へ」と、かへすがへす勧めければ、女うち涙ぐみて、御文を広げて、「この暮れに必ず」とある下に、「を」といふ文字をただ一つ、墨黒(すみぐろ)に書きて、もとのやうにして、御使に賜はせてけり。
御文もとのやうにて違(たが)はぬを御覧じて、「むなしく帰りたるよ」と本意なく思し召すに、この「を」文字あり。とかく御思案ありけれども、思し得る方なかりければ、女房たちを少々召して、この「を」文字を御尋ねありけるに、承明院に小宰相局とて、家隆卿((藤原家隆))の女のさぶらひけるが申しけるは、「昔、大二条殿(教通公)((藤原教通))、小式部内侍のもとへ、『月』といふ文字を書きてつかはされたりければ、さる数寄者和泉式部が女(むすめ)なりければ、やすく心得て、『月』の下に『を』といふ文字ばかりを書きて参らせたりける、その心なるべし。『月』といふ文字は、『夜さり待つべし。出でよ』と心得けり。また人の召す御いらへには、男は『よ』と申し、女は『を』と申すなり。されば小式部内侍、その夜、上東門院((藤原彰子))にさぶらひけるが、参りたりければ、いよいよ心まさりして、めで思し召しけり。これも一定参り侍りなん」と申しければ、御心地よげに思し召して、した待たせ給ひけり。
夜もやうやう更けぬれど、夜御殿(よるのおとど)へも入らせ給はず、宿直(とのゐ)申しの聞こゆるは、「丑(うし)となりぬるにや」と、御心をいたましむるほどに、蔵人、忍びやかに、この女房参り侍るよし、奏し申しければ、嬉しく思し召されて、やがて召されてけり。「漢武の李夫人に会ひ、玄宗の楊貴妃を得たるためしも、これにはまさり侍らじ」と御心の内もかたじけなく、さまざま語らひ給ふほどに、明けやすき短夜(みじかよ)なれば、暁近くなりゆくに、この女房、身のありさまをかきくどき、細かにはあらねど、心にまかせぬことのさまを申しければ、まづ返しつかはされにけり。
御心ざし浅からねば、やがて三千の列にも召しおかれて、九重の内の住みかをも、御はからいあるべきにもありけるを、まめやかに歎き申して、「さやうならば、なかなか御情けにても侍らじ。淵瀬を逃れぬ身ともなりぬべし。ただこのままにて、人のいたく知らぬほどならば、絶えず召しにもしたがふべき」よしを申しければ、つひにもとの住みかへ返されて、時々ぞ忍びて召されける。
かの少将は隠者なりけるを、あらぬかたにつけて召し出だされて、よろづに御情けをかけられて、近習(きんじふ)の人数に加へられなどして、ほどなく中将になされにけり。つつむとすれど、おのづから世に漏れ聞こえて、人の口のさがなさは、そのころのことわざ((「ことわざ」は底本「ことにさ」。諸本により訂正。))には、「鳴門の中将」とぞ申しける。「鳴門の若布(わかめ)」とて、良きめの上る所なれば、かかる異名を付けたりけるとかや。
およそ、君と臣とは、水と魚とのごとし。上としてもおごりにくまず、下としてもそねみ乱るべからす。唐土(もろこし)には、楚の荘王と申す君は、寵愛の后の衣を引く者を許して情けをかけ((『説苑』復恩篇・[[:text:mogyuwaka/ndl_mogyuwaka05-04|『蒙求和歌』5-4]]))、唐の太宗と申すかしこき御門は、すぐれて思し召しける后をも、臣下の約束ありと下しつかはされけり((『新唐書』魏徴列伝。))。わが朝にも、かかる古きためしもあまた聞こえ侍るにや。
今の後嵯峨の御門の御心もちゐのかたじけなさ、かの中将の許し申しける情(なさけ)の色、いづれもまことに優(いう)にありがたきためしには申し伝ふべきものをや。「君とし、臣としては、何事も隔つる心なくて、互ひに情け深きをもととすべきにこそ((「こそ」は底本「しそ」。諸本により訂正。))」と、昔より申し伝へたるもことわりに思え侍り。
===== 翻刻 =====
第八十七代の皇帝後嵯峨天皇と申は土御門天皇
の第三の皇子也父の御門寛喜三年遠所にて御
事ありし後は御めのと大納言通方卿のもとにかすかなる
御すまひにてわたらせ給へは御位の事はおほしめしも
よらす大納言さへ身まかりにけれは仁治二年の冬の比
八幡へまいらせ給て御出家の御いとま申させ給けるに
暁御宝殿のうちに徳是北辰椿葉影再改と鈴のこ
ゑのやうにてまさしくきこえさせ給けれはこれこそ示現
ならめとうれしくおほしめして還御ありけりもとの
通成中将の亭へはいらせ給はて御祖母承明門院の土
御門の御所へいらせ給てそのとしもくれにけり同三年正月/s228r
九日四条天皇十二歳禁中にして御事あるよしのの
しりけれは後堀川院の御方には御位につかせ給へき
宮もをはしまさすさためて佐渡院の宮たちそ践祚
あらんすらんとてききわきたる事はなけれとも時の卿相
雲客四辻の修明門院へまいりつとふといへとも天照太神
の御はからひにや侍けん同十九日関東より城介義景早打
にのほりてひそかに承明門院へまいりて御位は阿波院の
宮とさため申侍也公家にはいかか御はからいも侍らんと申
てやりて法性寺殿一条太相国へも申入てくたりぬ
京中の上下あはてさはきていまさらに土御門女院へ我も我も
とまいりつとふ或人御直衣をとりあへすまいらせたりけれ/s228l
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はこの直衣はことのほかにちいさしこと人のれうにやあ
らんとそ仰られける佐渡院の宮へまいらせん料にてこそ
ありつらめとおほしめししらせ給けるにやと涙ををさへて
とかく申人なかりけり同廿日の夜御元服やかて内裏へい
らせ給ふ四条大納言隆親卿の家冷泉万里少路の
里内裏也三月十八日御とし廿三にて太政官庁にて
即位あり六月六日前右大臣の女々御にまいりたまふ
後には大宮女院と申て二代の国母にをはします女御
にもしかるへき人このかきりまいり給いやしき女なとは御
目にたにもかからす昔立かへりて御政めてたく御心もち
ひもよろつたくみにをはしますあまり大井の山庄を仙/s229r
居にうつしをはします造営の事は権大納言実雄卿の
沙汰とそきこえし水の心はへ山の気色めつらかにおりし
ろき所から也東は広隆寺ときはの森西は前中書王
のふるき跡小倉山のふもとわさと山水を湛へされとも
自然の勝地なり南は大井河遥に流て法輪寺の
橋斜也北生身二伝の尺尊清涼寺にをはします眺
望よもにすくれて仏法流布の所也かかるはこやの
山をしめ給御事も此院の御時也
いつれの年の春とかややよひ花のさかりに和徳門の
御つほにて二条前関白大宮大納言兵部卿三位頭中将
なとまいりて御鞠侍しに見物の人々に交りて女とも/s229l
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あまた見え侍中に内の御心よせにおほしめすありけり
鞠は御心にもいれさせ給はて彼女房のかたを頻し御らん
すれは女わつらはしけに思てうちまきれて左衛門陣
のかたへ出にけり六位をめして此女の帰らん所見をきて
申せと仰られけれは蔵人追付てみるに此女房心えたり
けるにやいかにも此男すかしやりてんと思て蔵人をまねき
よせうちわらひてなよ竹のと申させ給へあなかしこ御返
事うけ給らんほとはここにて待まいらせんといへはす
かすとは思もよらすたたすきあひまいらせんとするそ
と心えていそきまいりて此由申せはさためて古哥の
句にてそあるらんとて御尋ありけれとも其庭にてはしる人/s230r
なかりけれは為家卿のもとへ御尋ありけるにとりあへ
ぬほとにふるき哥とて
たかしとてなににかはせんなよ竹の一夜二夜のあたのふしをは
と申されけれはいよいよ心にくくおほしめして御返事はなく
てたた女の帰らん所をたしかに見て申せと仰ありけれは
立帰ありつる門をみるになしかはあらんみえす又参て
しかしかと奏するに御けしきあしくて尋出さすは科
あるへき由仰らる蔵人あをさめてまかり出ぬこの事に
よりて御鞠もことさめていらせ給ぬそののちはにかにか
しくまめたたせ給て心くるしき御事にて侍けるある時
兵衛殿二条殿花山院大納言定雅大宮大納言公相権/s230l
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大納言実雄中納言通なとまいり給て御遊ありけれとも
さきさきのやうにもわたらせ給はす物をのみおほしめすさま
にて御なかめかちなれは近衛殿御かはらけをすすめ
させ給つゐてにまことにやちか比ゆくかたしらぬやと
のかやり火にこかれさせをはしますきこえ侍り高力士
に御ことのりして尋させ給はんかくれあらし物を蓬莱
まてもかよふまほろしのためしも侍りまして宮このうち
の事なれはさすかやすかりぬへしとてみきまいらさせ
給に内もすこしうちわらはせ給へともさして興せき
せ給はすそそろかせ給ていらせ給ぬ其後蔵人はいたらぬ
くまなくもしやあふとてもとめありきつつ仏神にさへいのり/s231r
申せともかひなし思わひて文平と申陰陽師こそ此比
掌をさして推察まさしかなれ此事うらなはせんと
思てまかりむかひて問けれはこれは内々承及へり
ゆゆしき御大事也文平か占は是にて心み給へし火の
ようをえたり神門也今日は巳日也巳はくちなはなり此
事を推するに一旦のかくれなりつゐにはあはせ給へし
但火のようは夏の季にいたりて御悦あるへしくちなはなれは
もとの穴に入てもとの所に出へし夏のうちにかくれけん所
にて必あはせ給へしといひけり文平も凡夫なれは一定
たのむへきにはあらねともむけにうはの空なりつる
よりはたのもしきかたいてきぬる心ちして常は左衛門の/s231l
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陣の方にそたたすみける五月十三日最勝講の開白
の日この女ありしさまをあらためて五人つれてふと行
合ぬ蔵人あまりのうれしさに夢うつつともおほえすあやし
まれしと思て人にまきれてみけれは仁寿殿の西の庇に
なみゐてちやうもんす講はててひしめかん時又うしなひ
てはいかかせんと思て経任の殿上の口にをはする所にて
この事しかしか奏し給へとかたらへはたたいま宮ひと所
に御聴聞のほとなりこちたしと申けれは力及はす伝
奏の人やをはするとみれともをはせす一位殿我御局
の口に女房と物仰らるるを見あひまいらせて畏て申
けるは推参に侍れとも天気にて侍りしかしかの事いそき/s232r
奏し給へと申けれはかねてきこえある事なれはやか
て奏し申させ給に女房して神妙也かまへて此たひ
は不覚せてゆくかたをたしかに見をきて申せと仰
らるるほとに講はつれは夕暮にも成ぬ此女とも
ひとつ車にて帰めり蔵人我身はあやしまれしと思てさかさか
しき女をつけて見いれさすれは三条白河になにかしの
少将といふ人の家也此よしを奏するにやかて御ふみあり
あたに見し夢かうつつかなよ竹のおきふしわふる恋そくるしき
此くれにかならすとはかりあり蔵人御書を給てかの所に
もてゆくにおとこある人なれはわつらはしうて歎くに御使
心もとなくて返事をせむれはいかにもかくれあらしと思て/s232l
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ありのままにかたれは少将さすかにわつらはしけに思て
おとこの身にて左右なくまいらせんもははかりありあな
かしこといさめんも便なかるへき事也人によりて事こと
なる世なれはひとつは名聞也人のそしりはさもあらはあれ
とくとくまいらせ給へとすすむるに女うちなけきてかなふ
ましきよし返々いなひけれは少将申けるはこの三とせか
ほとおろかならす思かはして過ぬるも世々の契なるへし
今更めされ給もあさからぬ御契ならんかしやうやうしくて
まいり給はすはさためてあしさまなる事にて我身も
をき所なき事にも成ぬへしよもあしくははからひ申さし
とくとくまいり給へと返々すすめけれは女うち涙くみて/s233r
御文をひろけてこのくれにかならすとある下にをといふ
文字をたた一すみくろに書てもとのやうにして御使に
たまはせてけり御文もとのやうにてたかはぬを御らんして
むなしくかへりたるよとほいなくおほしめすに此を文字あ
りとかく御思案ありけれともおほしうるかたなかりけれは
女房たちを少々めしてこのを文字を御尋ありけるに
承明院に小宰相局とて家隆卿の女のさふらひけるか
申けるはむかし大二条殿(教通公)小式部内侍のもとへ月といふ
文字を書てつかはされたりけれはさるすき物和泉式部か
むすめなりけれはやすく心えて月の下にをといふ文字
はかりを書てまいらせたりけるその心なるへし月といふもしは/s233l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/233
よさり待へしいてよと心えけり又人のめす御いらへに
は男はよと申女はをと申也されは小式部内侍その夜
上東門院にさふらひけるかまいりたりけれはいよいよ心
まさりしてめておほしめしけりこれも一定まいり侍なん
と申けれは御心ちよけにおほしめしてしたまたせ給けり
夜もやうやうふけぬれとよるのおととへもいらせ給はすとの
ゐ申のきこゆるはうしと成ぬるにやと御心をいたましむる
程に蔵人しのひやかに此女房まいり侍由奏し申けれ
はうれしくおほしめされてやかてめされてけり漢武の
李夫人にあひ玄宗の楊貴妃をえたるためしも
これにはまさり侍らしと御心のうちもかたしけなくさまさま/s234r
かたらひ給程に明やすきみしか夜なれは暁ちかくなり
ゆくにこの女房身のありさまをかきくときこまかにはあ
らねと心にまかせぬ事のさまを申けれは先返しつ
かはされにけり御心さし浅からねはやかて三千の列にも
めしをかれて九重のうちのすみかをも御はからいあるへき
にもありけるをまめやかに歎申てさやうならは中々御
なさけにても侍らし渕瀬をのかれぬ身とも成ぬへし
たたこのままにて人のいたくしらぬほとならはたえす召
にもしたかふへきよしを申けれはつゐにもとのすみかへ
かへされて時々そ忍てめされける彼少将は隠者なり
けるをあらぬかたにつけてめし出されてよろつに御情をかけ/s234l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/234
られて近習の人数にくはへられなとしてほとなく中
将になされにけりつつむとすれとをのつから世にもれき
こえて人の口のさかなさはその比のことにさにはな
るとの中将とそ申けるなるとのわかめとてよきめの
のほる所なれはかかる異名を付たりけるとかや凡
君と臣とは水と魚とのことし上としてもおこりにく
ます下としてもそねみみたるへからすもろこしには
楚の荘王と申君は寵愛の后の衣をひく物をゆる
して情をかけ唐の太宗と申かしこき御門はすくれて
おほしめしける后をも臣下のやくそくありとくたし
つかはされけり我朝にもかかるふるきためしもあまたき/s235r
こえ侍にや今の後嵯峨の御門の御心もちひのかたし
けなさかの中将のゆるし申けるなさけの色いつれも
まことに優にありかたきためしには申つたふへきもの
をや君とし臣としては何事もへたつる心なくて
たかひになさけふかきをもととすへきにしそと昔より
申つたへたるもことはりにおほえ侍り/s235l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/235