[[index.html|古今著聞集]] 管絃歌舞第七 ====== 255 源義光は豊原時元が弟子なり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 源義光は豊原時元が弟子なり。時秋((豊原時秋。時元の子。))いまだ幼なかりける時、時元は失せにければ、大食調入調(だいしきでうにふでう)の曲をば時秋には授けず。義光には確かに教へたりけり。 陸奥守義家朝臣((源義家))、永保年中に武衡((清原武衡))・家衡((清原家衡))等を攻めける時((後三年の役))、義光は京に候ひて、かの合戦の事を伝へ聞きける。暇(いとま)申して下らんとしけるを、御許しなかりければ、兵衛尉を辞し申して、陣に弦袋(つるぶくろ)をかけて馳せ下りけり。 近江国鏡の宿に着く日、縹(はなだ)の一重狩衣に襖袴(あをばかま)着て、引入烏帽子(ひきいれえぼし)したる男、遅れじと馳せ来たるあり。あやしう思ひて見れば、豊原時秋なりけり。「あれはいかに。何しに来たりたるぞ」と問ひければ、とかくのことは言はず、ただ「御供つかまつるべし」とばかりぞ言ひける。義光、「このたびの下向、もの騒がしきこと侍りて、馳せ下るなり。ともなひ給はんこと、もつとも本意なれども、このたびにおきてはしかるべからず」と、しきりにとどむるを聞かず、しひて従ひ給ひけり。力及ばで、もろともに下りて、つひに足柄の山まで来にけり。 かの山にて、義光、馬をひかへていはく、「とどめ申せども、用ゐ給はで、これまでともなひ給ひつること、その心ざし浅からず。さりながら、この山にはさだめて関も厳しくて、たやすく通すこともあらじ。義光は所職(しよしょく)を辞し申して都を出でしより、命を無きものになしてまかり向へば、いかに関厳しくともはばかるまじ。駆け破りてまかり通るべし。それにはその用なし。すみやかに、これより帰り給へ」と言ふを、時秋、なほ承引せず。また言ふこともなし。 その時、義光、時秋が思ふ所を悟りて、関所にうち寄りて、馬より下りぬ。人を遠くのけて、柴を切り払ひて、楯二枚を敷きて、一枚はわが身座し、一枚は時秋をすゑけり。靫(うつほ)より一紙の文書を取り出でて、時秋に見せけり。「父時元、自筆に書きたる大食調入調の曲の譜、また笙はありや」と時秋に問ひければ、「候ふ」とて、懐(ふところ)より取り出だしたりける用意のほど、まづいみしくぞ侍りける。その時、「これまでしたひ来たられたる心ざし、さだめてこの料(れう)にてぞ侍らん」とて、すなはち入調の曲を授けてけり。 「義光は、かかる大事により下れば、身の安否知りがたし。万が一安穏ならば、都の見参を期すべし。貴殿は豊原数代の楽工、朝家要須(てうけえうす)の仁なり。われに心ざしを思さば、すみやかに帰洛して、道をまたうせらるべし」と再三言ひければ、理に折れてぞ上りける。 裏書  宇治左府御記((『台記』。藤原頼長の日記。))云 保延五年六月十九日(丁卯)、依為入学吉日、平調入調習畢。即吹十返、以時秋為師所望也。昨以消息触権大納言((源雅定))云、「明日習入調如何。」。返報云、「尤可然。」者。 同二十日(戊辰)、習大食調入調。習時秋也。習了則吹十返。昨日以吉日習平調。仍太食調不尋日次。昨習平調入調了。訖後申権大納言(以消息申)曰、「平調入調已習了。此後経一両月、可習大食調入調歟如何」。返報云、「只可任意」者。仍所習也。 召時秋南庭、給栗毛馬一疋(置鞍。下臈随身取之。上手下手厩舎人取之。)時秋一拝退出。件馬并舎人等外宿也。然而予有簾中給之。至入調者有禄((「禄」は底本「縁」。文脈により訂正。))云々。 昔、時光((豊原時光))習平調入調於時信((豊原時延か。))。時信云、「入調者四天王之常所令守護也。仍必給禄。時光清貧無財。以古泥障二枚奉時信云々。 習訖之由、告権大納言。相副返事、被送故左近将監時光之自筆譜二枚。(一枚平調入調、一枚大食調々々々入調奥書載黄鐘調々子秘説。予披見之、一拝捧持賞翫矣)。 ===== 裏書書き下し =====  宇治左府御記に云はく 保延五年六月十九日(丁卯)、入学の吉日為るに依りて、平調の入調習ひ畢(おは)んぬ。即ち吹くこと十返、時秋を以て師と為す所望なり。昨、消息を以て権大納言に触れて云く、「明日入調を習ふこと如何。」。返報に云はく、「尤も然るべし」者(てへ)り。 同じき二十日(戊辰)、大食調入調を習ふ。時秋に習ふなり。習ひ了(をは)りて則ち吹くこと十返。昨日吉日を以て平調を習ふ。よつて太食調は日次を尋ねず。昨平調入調を習ひ了(をは)んぬ。訖(をは)りて後権大納言申して曰く(消息を以て申す)、「平調の入調はすでに習ひ了んぬ。此後一両月を経て、大食調入調を習ふべきか如何。」と。返報に云はく、「ただ意に任すべし。」者れり。よつて習ふ所なり。 時秋を南庭に召し、栗毛馬一疋を給ふ(鞍を置く。下臈・随身これを取る。上手下手厩の舎人これを取る。)時秋一拝して退出す。件の馬并びに舎人等は外宿なり。しかれども予は簾中に有りてこれを給ふ。入調に至る者禄有りと云々。 昔、時光平調の入調を時信に習ふ。時信云はく、「入調は四天王の常に守護せしむる所なり。よつて必ず禄を給ふ。」と。時光清貧にして財無し。古泥障(ふるあふり)二枚を以て時信に奉ると云々。 習ひ訖(をは)れる由、権大納言に告ぐ。返事を相ひ副へて、故左近将監時光の自筆譜二枚を送らる。(一枚は平調の入調、一枚は大食調。大食調の入調の奥書に黄鐘調の調子の秘説を載す。予これを披見し、一拝して捧持して賞翫す)。 ===== 翻刻 ===== 源義光は豊原時元か弟子也時秋いまたおさなかりける 時時光はうせにけれは大食調入調曲をは時秋にはさつけ す義光にはたしかにおしへたりけり陸奥守義家朝 臣永保年中に武衡家衡等をせめける時義光は京に 候て彼合戦の事をつたへききけるいとま申てくたらんとし けるを御ゆるしなかりけれは兵衛尉を辞申て陣につる 袋をかけて馳下りけり近江国鏡の宿につく日花田 のひとへかり衣にあをはかまきて引入烏帽子したる男 おくれしと馳きたるありあやしうおもひてみれは豊原時秋 なりけりあれはいかになにしにきたりたるそととひけれは とかくのことはいはすたた御共仕へしとはかりそいひ/s169r ける義光このたひの下向物さはかしき事侍て馳下也 ともなひ給はん事尤本意なれとも此たひにおきてはし かるへからすと頻にととむるをきかすしゐてしたかひ給 けりちからおよはてもろともにくたりてつゐに足柄の 山まてきにけり彼山にて義光馬をひかへていはくと とめ申せとも用給はてこれまて友なひ給つる事そ の心さしあさからすさりなから此山にはさためて関もき ひしくてたやすくとをす事もあらし義光は 所職を辞申て都を出しより命をなき物になして まかりむかへはいかに関きひしくともははかるまし かけやふりてまかりとをるへしそれにはその用なし/s169l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/169 すみやかにこれより帰給へといふを時秋猶承引せす又 いふこともなし其時義光時秋か思所をさとりて関所に うちよりて馬よりおりぬ人を遠くのけて柴を切は らひて楯二枚をしきて一枚は我身座し一枚は時秋を すゑけりうつほより一紙の文書をとり出て時秋に見せけり 父時元自筆に書たる太食調入調曲譜又笙はあり やと時秋にとひけれは候とてふところより取いたしたり ける用意の程まついみしくそ侍ける其時これまてしたひ きたられたる心さしさためて此れうにてそ侍らんとて則 入調曲をさつけてけり義光はかかる大事によりくたれは 身の安否しりかたし万か一安穏ならは都の見参を期/s170r すへし貴殿は豊原数代之楽工朝家要須の仁也我に 心さしをおほさはすみやかに帰洛して道をまたうせらるへ しと再三いひけれは理におれてそのほりける  (裏書)  宇治左府御記云 保延五年六月十九日(丁/卯)依為入学吉日平調入調習畢 即吹十返以時秋為師所望也昨以消息触権大納言 云明日習入調如何返報云尤可然者 同廿日(戊/辰)習大食調入調習時秋也習了則吹十返昨日 以吉日習平調仍太食調不尋日次昨習平調入調了訖 後申権大納言(以消息/申)曰平調入調已習了此後経一両月 可習大食調入調歟如何返報云只可任意者仍所習/s170l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/170 也召時秋南庭給栗毛馬一疋(置鞍下臈随身取之/上手下手厩舎人取之)時秋 一拝退出件馬并舎人等外宿也然而予有簾中給 之至入調者有縁云々昔時光習平調入調於時信時 信云入調者四天王之常所令守護也仍必給禄時光清 貧無財以古泥障二枚奉時信云々習訖之由告権大納言 相副返事被送故左近将監時光之自筆譜二枚 (一枚平調入調一枚大食調々々々/披見之一拝捧持賞翫矣)入調奥書載黄鐘調々子秘説予/s171r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/171