[[index.html|古今著聞集]] 和歌第六 ====== 204 かの清輔朝臣の伝へたる人丸の影は・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== かの清輔朝臣((藤原清輔))の伝へたる人丸の影(([[s_chomonju203|203]]参照。))は、讃岐守兼房朝臣((藤原兼房))、深く和歌の道を好みて、人麿((柿本人麻呂))の形(かたち)を知らざることを悲しみけり。夢に人丸来たりて、「われを恋ふるゆゑに形をあらはせる」よしを告げけり((「告げけり」は底本「つゝつけけり」。諸本により訂正。))。 兼房、画図にたへずして、後朝に絵師を召して、教へて描かせけるに、夢に見しに違(たが)はざりければ、悦びてその影を崇めて持(も)たりけるを、白河院((白河上皇))、この道御好みありて、かの影を召して、勝光明院の宝蔵に納められにけり。 修理大夫顕季卿((藤原顕季))、近習(きんじゆ)にて所望しけれども、御ゆるしなかりけるを、あながちに申して、つひに写し取りつ。顕季卿の一男中納言長実卿((藤原長実))、二男参議家保卿((藤原家保))、この道にたへずとて、三男左京大夫顕輔卿((藤原顕輔))に譲りけり。 兼房朝臣の正本は、小野皇太后宮((藤原歓子))、申し受けて御覧じけるほどに、焼けにけり。貫之((紀貫之))が自筆の古今((古今和歌集))も、その時同じく焼けにけり。口惜しきことなり。されば、顕季卿本が本になりるにこそ。実子なりとも、この道にたへざらん者には伝ふべからず、写しもすべからず。起請文あるとかや。 件(くだん)の本、保季卿((藤原保季。諸本このあと「つたへとりて」とある。))、成実卿((藤原成実))に授けられけり。今は院((後嵯峨上皇))に召し置かれて、建長のころより影供など侍るにこそ。供具(くぐ)は、家衡卿((藤原家衡。底本「経家子」と傍注。))のもとに伝はりたりけるを、家清卿((藤原家清。底本「家衡子」と傍注。))伝へ取りて、失せて後、その子息のもとにありけるも、同じ院に召し置かれにけり。長柄(ながら)の橋の橋柱にて作りたる文台は、俊恵法師がもとより伝はりて、後鳥羽院((後鳥羽天皇))の御時も御会などに取り出だされけり。一院の御会に、かの影の前にて、その文台にて和歌披講(ひかう)せらるる、いと興あることなり。 ===== 翻刻 ===== 彼清輔朝臣のつたへたる人丸の影は讃岐守兼房朝臣 ふかく和哥の道をこのみて人麿のかたちをしらさる事を かなしみけり夢に人丸来てわれをこふるゆへにかたちをあら はせるよしをつつけけり兼房画図にたへすして後朝に 会師をめしてをしへてかかせけるに夢にみしにたかはさりけれは/s147r 悦て其影をあかめてもたりけるを白川院この道御このみ ありて彼影をめして勝光明院の宝蔵におさめられにけり 修理大夫顕季卿近習にて所望しけれとも御ゆるしなかりける をあなかちに申てつゐにうつしとりつ顕季卿一男中納言長 実卿二男参議家保卿この道にたへすとて三男左京大夫 顕輔卿にゆつりけり兼房朝臣の正本は小野皇太后 宮申うけて御らんしける程に焼にけり貫之か自筆の 古今も其時おなしくやけにけり口惜事也されは顕季卿 本か正本に成にけるにこそ実子なりとも此道にたへさらん ものにはつたふへからすうつしもすへからす起請文あると かや件本保季卿成実卿にさつけられけり今は院に http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/147 めしをかれて建長の比より影供なと侍にこそ供具は 家衡(経家子)卿のもとにつたはりたりけるを家清(家衡子)卿伝とりて うせてのち其子息のもとにありけるも同院にめしをかれに けり長柄橋の橋柱にてつくりたる文臺は俊恵法しかもとより つたはりて後鳥羽院御時も御会なとにとりいたされけり一院 御会に彼影の前にて其文臺にて和哥披講せらるるいと興ある 事也養和二年春賀茂神主重保又尚歯会を行たりけり七/s148r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/148