[[index.html|古今著聞集]] 政道忠臣第三 ====== 87 治承四年秋のころより伊豆国の流人前の右兵衛佐頼朝謀反の聞こえありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 治承四年秋のころより、伊豆国の流人、前の右兵衛佐頼朝((源頼朝))、謀反の聞こえありけり。追討使((「追討使」は底本「追罰使」。以下すべて同じ。))少将惟盛朝臣((平惟盛))・薩 摩守忠度((平忠度))・参河守知度((平知度))等下されたりけれども、源家の兵、次第に数そひければ、追討使等みな道より帰りにけり。 かかるほどに、世の中静かならざりければ、十一月三十日、新院((高倉天皇))の殿上にて、東国謀反のこと、群儀ありけり。中御門左大臣((藤原経宗))・左大将((後徳大寺実定・藤原実定))・帥大納言((藤原隆季。底本「隆季」と注記。))・新大納((藤原宗家。底本「宗家」と注記。))・春宮大夫((中山忠親・藤原忠信。底本「忠信 親イ」と注記。))・左大弁((藤原長方。底本「長方」と注記。))、参られたりけり。頭弁経房朝臣((藤原経房))、綸言(りんげん)の旨を仰せけるに、左大弁、発言して申しけるは、 >偏可被((「被」底本なし。諸本により補う。))行徳政。漢高((漢の高祖。劉邦。))被掠六国、承平年中有将門((平将門))謀反。倭漢雖存先祖、於今度者、四ヶ月中、十余国皆反。当時之政若不叶天道歟。以之思之、法皇((後白河法皇))四代帝王父祖也。無故不知食天下。如元可聞食政務歟。又入道関白((藤原基房))被浴帰朝之恩者、可為攘災之基哉。 >>偏へに徳政を行はるべし。漢高は六国を掠せられ、承平年中に将門の謀反有り。倭漢先祖を存すといへども、今度に於ては、四ヶ月の中に、十余国皆反す。当時の政若し天道に叶はざるか。これを以てこれを思ふに、法皇は四代の帝王の父祖なり。故無きに天下を知ろしめされず。元のごとく政務を聞こしめすべきか。又入道関白帰朝の恩に浴せらる者(てへ)れば、攘災の基たるべき哉。 と申したりけるを、諸卿聞きて、みな色を失なはれけり。他人はただ徳政を行はるべきおもむきをぞ申されける。かの両事には同ぜられざりけり。 法皇、去年の冬より政(まつりごと)に御口入れもなく、殿下((藤原基房))、ゆゑなく流されさせたまひしことは、しかしながら平太政入道((平清盛))の張行(ちやうぎやう)にて侍りけるに、左大弁恐るることなく定め申されける、ありがたきことなり。 入道((平清盛))もさすが道理をば恥ぢ思はれけるにや、その後ほどなく、十二月八日より、法皇の御ことをもなだめ申し、同じき十六日、入道殿下も備前国より帰洛せさせ給ひけり。 ===== 翻刻 ===== 治承四年秋比より伊豆国流人前右兵衛佐頼朝 謀反のきこえありけり追罰使少将惟盛朝臣薩 摩守忠度参河守知度等くたされたりけれとも源 家の兵次第にかすそひけれは追罰使等みな道よ りかへりにけりかかる程に世中しつかならさりけれは/s78l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/78 十一月卅日新院の殿上にて東国謀反事群儀 ありけり中御門左大臣左大将帥大納言(隆季)新大納言(宗家) 春宮大夫(忠信 親イ)左大弁(長方)まいられたりけり頭弁経房 朝臣綸言の旨を仰けるに左大弁発言して申 けるは偏可行徳政漢高被掠六国承平年中 有将門謀反倭漢雖存先祖於今度者四ヶ 月中十余国皆反当時之政若不叶天道歟以 之思之法皇四代帝王父祖也無故不知食天 下如元可聞食政務歟又入道関白被浴帰朝之 恩者可為攘災之基哉と申たりけるを諸 卿ききてみな色をうしなはれけり他人はたた徳政/s79r を行はるへきおもむきをそ申されける彼両事には 同せられさりけり法皇去年冬より政に御口入も なく殿下ゆへなくなかされさせたまひし事はしかし なから平太政入道の張行にて侍けるに左大弁 おそるる事なくさため申されける有かたき事なり 入道もさすか道理をははぢ思はれけるにや其後 程なく十二月八日より法皇の御事をもなため 申同十六日入道殿下も備前国より帰洛せさせ給けり/s79l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/79