[[index.html|古今著聞集]] 政道忠臣第三 ====== 84 徳大寺左府中院の右府を越えて右大将になり給ひにけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 徳大寺左府((藤原実能))、中院の右府((源雅定))を越えて、右大将になり給ひにけり。保延五年十二月十六日、実能、右大将に任ず。同じき六年十一月二日、内大臣((藤原頼長))、左大将を辞し、同じき十二月七日、雅定を左大将に任ず。宇治の左府((藤原頼長))、内大臣左大将にておはしけるが、中院の右府の料(れう)に左大将を辞し申されたりけるに、崇徳院((崇徳天皇))、徳大寺を左に転ぜさせんと思し召して、しばらくおさへられけり。中院の右府のことをば、鳥羽院((鳥羽天皇))、しきりに執し申させ給ひけれども、なほことゆかざりければ、保延六年十一月二十五日に、院、近衛烏丸の陣口に御幸なりて、仰せ下さるるよしを承りて、罷り帰るべきよしを申されければ、力及ばせ給はで、その夜、召し仰せありけり。やむごとなかりけることなり。 ===== 翻刻 ===== 徳大寺左府中院右府を越て右大将になり給に けり保延五年十二月十六日実能任右大将同 六年十一月二日内大臣辞左大将同十二月七日雅定 任左大将宇治左府内大臣左大将にておはし けるか中院右府のれうに左大将を辞申されたり けるに崇徳院徳大寺を左に転せさせん/s77r とおほしめしてしはらくをさへられけり中院右府の事 をは鳥羽院しきりに執申させ給けれとも猶事ゆか さりけれは保延六年十一月廿五日に院近衛烏丸 の陣口に御幸なりておほせくたさるるよしを承て 罷帰へきよしを申されけれはちからおよはせたまは て其夜召仰ありけりやむことなかりける事也/s77l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/77