====== 蘇軾 ====== そしょく(1036〜1101) [[北宋]]の[[文人]]。蜀(四川省)眉山の人。[[字]]は子瞻。東坡居士、鉄冠道人などと[[号]]す。 [[唐宋八大家]]の一人。同じく唐宋八大家の[[蘇洵]]の子で[[蘇轍]]の兄。蘇洵を老蘇といい、 蘇轍を小蘇というのに大して、大蘇といわれる。 22歳のとき、[[蘇轍]]とともに[[科挙]]の進士科に及第し、27歳で制科に合格、鳳翔府(陝西省)の書紀官として最初の任につく。 その後、中央の官に就くが、[[王安石]]の政策に反対したため排斥され、地方官となる。[[杭州]](浙江省)の副知事、[[密州]](山東省)、[[徐州]](江蘇省)の知事を経て、[[湖州]]の知事に在任中、その詩文(烏台詩案)が政治批判にあたるとして、[[御史台]]に逮捕され獄に投ぜられる。100日間禁獄された後、特赦によって死刑を免れ、[[黄州]](湖北省)に流罪となる。 50歳のとき、皇帝神宗が崩御し、蘇軾も復権、[[登州]](山東省)の知事を経て、中央へ召され、杭州、[[潁州]](安徽省)の知事に転出したこともあるが、おおむね中央で要職を歴任する。なお、[[西湖]]に蘇提を作ったのはこのときである。 1093年、哲宗皇帝の親政が始まり、中央から追放され、[[定州]](河北省)の知事に出されるが、再び政治批判の罪により[[恵州]](広東省)に流され、さらに海南島の儋州まで追いやられる。 さらに哲宗が崩御して、名誉を回復され大陸へ帰ることとなるが、常州(江蘇省)にて66歳で客死した。 その[[散文]]は[[唐宋八大家]]に数えられ、書は[[黄庭堅]]、[[米元章]]、[[蔡襄]]とともに宋四大家に数えられる。 【参考サイト】 * http://cls.admin.yzu.edu.tw/su_shih/ 蘇軾 * http://cls.admin.yzu.edu.tw/cm/ 蘇軾詩標誌系統研究 * http://home.hiroshima-u.ac.jp/~sueyoshi/sushi.htm 蘇洵蘇軾詩検索 * ここは日本語。