text:yomeiuji:uji171
宇治拾遺物語
第171話(巻13・第11話)渡天の僧、穴に入る事
渡天僧入穴事
渡天の僧、穴に入る事
校訂本文
今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただもののゆかしければ、物見にし飽歩(あり)きければ、所々見行きけり。
あるかた山に、大きなる穴あり。牛のありけるが、この穴に入りけるを見て、ゆかしく思えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。遥かに行きて、明かき所へ出でぬ。見回せば、あらぬ世界と思えて、見も知らぬ花の色いみじきが咲き乱れたり。牛、この花を食けり。
試みに、この花を一房取りて、食ひたりければ、うまきこと、「天の甘露もかくやあらん」と思えて、めでたかりけるままに多く食ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。
心得ず、恐しく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、初めはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭(せば)く覚えて、やうやうとして穴の口までは出でたれども、え出でずして、耐へがたきことかぎりなし。
前を通る人に、「これ、助けよ」と呼ばはりけれど、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも、何と見えけるやらん、不思議なり。
日ごろ重なりて死ぬ。後は石になりて、穴の口に頭をさし出だしたるやうにてなんありける。
玄奘三蔵、天竺に渡り給ひたりける日記1)に、このよし記されけり。
翻刻
いまはむかし唐にありける僧の天竺にわたりて他事にあらすたた 物のゆかしけれは物見にしありきけれは所々みゆきけりある かた山に大なる穴あり牛のありけるか此穴に入けるをみてゆかしく おほえけれは牛の行につきて僧も入けりはるかに行てあかき 所へ出ぬ見まはせはあらぬ世界とおほえて見もしらぬ花の色いみ/下78ウy410
しきかさきみたれたり牛此花を食けり試に此花を一 房とりて食たりけれはうまき事天の甘露もかくやあらん とおほえて目出かりけるままにおほく食たりけれはたた肥にこへ ふとりけり心えすおそろしく思てありつる穴のかたへ帰行にはし めはやすくとほりつる穴身のふとくなりてせはくおほえてやう やうとして穴の口まては出たれともえいてすしてたへかたき事 限なしまへをとほる人にこれたすけよとよははりけれと耳に聞 いるる人もなしたすくる人もなかりけり人の目にもなにとみえける やらんふしき也日比かさなりて死ぬ後は石になりて穴の口に頭 をさしいたしたるやうにてなんありける玄奘三蔵天竺にわたり 給たりける日記に此よししるされけり/下79オy711
1)
『大唐西域記』を指すか。ただし、『大唐西域記』にこの記事なし。
text/yomeiuji/uji171.txt · 最終更新: 2019/11/23 18:18 by Satoshi Nakagawa