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宇治拾遺物語

第110話(巻9・第5話)つねまさが郎等、仏供養の事

ツネマサガ郎等仏供養事

つねまさが郎等、仏供養の事

昔、ひゃうどうだいぶつねまさといふ物ありき。それは、筑前国、やまがの庄よいひし所にすみし。又、そこにあからさまにゐたる人ありけり。

つねまさが郎等に、まさゆきとてありしをのこの、「仏つくりたてまつりて供養し奉んとす」とききわたりて、つねまさがゐたるかたに、物くひ、さけのみ、ののしるを、「こは、なに事するぞ」といはすれば、「まさゆきといふものの『仏供養したてまつらん』とて、しうのもとにかうつかまつりたるを、かたへの郎等どものたべののしる也。けふ、饗百膳斗ぞつかまつる。あす、そこの御まへの御れうには、つねまさやがてぐしてまいるべくさぶらふなる」といへば、仏供養したてまつる人は、かならずかくやはする。「ゐ中のものは、『仏くやうしたてまつらん』とて、かねて四五日よりかかる事どもをしたてまつる也。昨日、一昨日はおのがわたくしに、里隣の私のものどもよびあつめてさぶらひつる」といへば、「おかしかりけることかな」といひて、「あすを待べきなめり」といひてやみぬ。

あけぬれば、「いつしか」と待ゐたるほどに、つねまさいできにたり。「さなめり」と思ふほどに、「いづら、これにまいらせよ」といふ。「さればよ」と思ふに、させることはなけれど、たかく大きにもりたる物どももてきつつ、すゆめり。「さぶらひのれう」とて、あしくもあらぬ饗一二ぜんばかりすへつ。雑色、女どものれうにいたるまで、かずおほくもてきたり。「講師の御試」とて、こだいなる物すへたり。講師には、このたびなる人のぐしたる僧をせんとしける也けり。

かくて物くひ、酒のみなどするほどに、この講師に請ぜられんずる僧のいふやうは、「あすの講師とはうけ給れども、その仏を供養せんずるぞとこそ、えうけたまはらね。なに仏をくやうしたてまつるにかあらん。仏はあまたおはします也。うけ給て読経をもせばや」といへば、つねまさききて、「さる事なり」とて、「まさゆきや候」といへば、此仏供養したてまつらんとするおのこなるべし、たけたかく、をせくみたるもの、あかひげにて、とし五十ばかりなる、太刀はき、ももぬきはきていできたり。

「こなたへまいれ」といへば、庭中にまいりてゐたるに、つねまさ、「かのまうとは、なに仏を供養したてまつらんずるぞ」といへば、「いかでかしりたてまつらんずる」といふ。「とは、いかに。たがしるべきぞ。もしこと人のくやうしたてまつるを、ただ供養の事のかぎりをするか」ととへば、「さも候はず。まさゆきまろがくやうし奉るなり」といふ。「さては、いかでかなに仏とはしりたてまつらぬぞ」といへば「仏師こそは、しりて候らめ」といふ。あやしけれど、「げにさもあるらん。此男仏の御名をわすれたるならん」とおもひて、「その仏師はいづくにかある」ととへば「ゑいめいぢにさぶらふ」といへば、「さては近かんなり。よべ」といへば、この男、帰いりてよびてきたり。

ひらづらなる法師のふとりたるが、六十ばかりなるにてあり。「物に心えたる覧かし」とみえず。いできて、まさゆきにならびてゐたるに、「此僧は仏師か」ととへば、「さに候」と云。「まさゆきが仏や作たる」ととへば、「作りたてまつりたり」といふ。「いくかしら造たてまつりたるぞ」ととへば、「五頭作たてまつるれり」といふ。「さて、それはなに仏を作奉りたるぞ」ととへば、「えしり候はず」とこたふ。「とはいかに。まさゆきしらずと云。仏師しらずば、たがしらんぞ」といへば、仏師は、「いかでかしり候はん。仏師のしるやうは候はず」といへば、「さは、たがしるべきぞ」といへば、「講師の御房こそしらせ給はめ」といふ。

「こはいかに」とて、あつまりてわらひののしれば、仏師ははら立て、「物のやうだいもしらせ給はざりけり」とてたちぬ。「こはいかなる事ぞ」とてたづぬれば、はやう、「ただ、仏、つくりてたてまつれ」といへば、ただ、まろがしらにて、斎の神の冠もなきやうなる物を、五かしらきざみたてて、供養したてまつらん。講師して、その仏、かの仏と、名を付たてまつる也けり。それをとひききて、おかしかりし中にも、おなじ功徳にもなればとききし。

あやしのものどもは、かく希有の事どもをし侍りけるなり。

text/yomeiuji/uji110.1432456744.txt.gz · 最終更新: 2015/05/24 17:39 by Satoshi Nakagawa