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text:yomeiuji:uji102 [2015/04/18 18:48] – [第102話(巻8・第4話)敏行朝臣の事] Satoshi Nakagawatext:yomeiuji:uji102 [2018/10/19 17:05] (現在) Satoshi Nakagawa
行 6: 行 6:
 **敏行朝臣の事** **敏行朝臣の事**
  
-これも今はむかし、敏行といふ哥よみは、手をよく書ければ、これかれいふにしたがひて、法花経を二百部斗書たてまつりたりけり。+===== 校訂本文 =====
  
-かかる程に俄に死けり。「我はしぬるぞ」とぬに俄にからめて引はりて出ば、「我斗の人を、大やけ申とも、かくせさせ給べきか。心えぬわざかな」と思て、からめて行人に、「これはかなる事ぞ。何事のあやまちにより、かくばかりのめをばるぞ」ととへば「いざ、我はしらず。『慥にめしてこ』と仰承ていてまいるなり。そこは法花経やかきたてまつりたる」ととへば、「しかじか書たてまつりたり」といへば、「我ためには、いらかたる」ととへば、「我ためとも侍らず。ただ人のかかすれば、二百斗かきたるらんとおぼゆる」といへば、「その事のうれへいできて、さたのあらんずるにそあめ」と斗いひて、又こと事もいはで行程に、あさましく人のむかふべくもなく、おそろしといへばおろかなる物の、眼をみればいな光のやうひらめき、口はほむらなどのやうにおそろしき気色したる軍の、鎧冑きて、えもいはぬ馬に乗つつきて、二百人斗逢たり。みるに、肝まどひたうれふしにべき心ちしてすれども、我にもあらず引立られて行+これ((藤原敏行))といふ歌詠く書きければ、これかれが言ふにしたがひて、法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり
  
-さて此軍だちいぬからめて行人に、「れはいかなるぞ」とへば、「えしぬか。これこ汝にあつらかかせたる物共のその経の功徳によもむまれ極楽にもま、人にむま帰るとももむまべかりしが汝がその経書たてまつるとて、魚をもくひ、女もふれて、きよはる事もて、心をば女のもと置て書たてつりたれば其功徳のかなはずして、かくいかう武き身にむまれてねたがりて、「よびて給はらん。そのあだ報ぜん」とうへ申せ、此度は道理さるべたびにあも、こよりてめさる也」とふに身もきるやうにしみこほりて、これをきくに、しぬべき心す。+かかるほどにかに死にけり。「われは死ぬるぞ」とも思はぬに、にはかにからめて、引張り、出で行けば、「わればかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか心得ぬわざかな」と思ひて、からめて行人に、「れはいかなることぞ。何事の過ちにより、かくばかりの目をば見るぞ」とへば、「いさ、われは知『たしかに召して来()』と仰せを承りて、率(い)て参るなり。こは、法華や書き奉りたる」と問ば、「しか、書き奉たり」と言へば「わがため、いくらか書きたる」と問へば「わがためとも侍らず。ただ、人の書かす二百ばかり書たるらん覚ゆ」と言へばそのの愁へ出で来て、沙汰のあらんずるこそあめ」とばかり言ひて、また異(ことごと)言はで行ほどに、あさしくふべくもなく、恐しとへばおろなる者のれば稲光のやうひらめき、口は炎(ほむ)などのやう恐しき気色した軍(くさ)の鎧冑着ていはぬ馬に乗つつ来て、二百人なかり逢ひたり。見るに、肝惑ひ倒(たう)れ伏しぬべき心れども、われにもあらず、引き立てられて行く
  
-さて、我をばいかにせんとて、かくはぞ」とへば、「おろにもとふ哉。その持たりつる太刀にて汝が身をば先二百さきて各一きづつとりとす。その二百のれに汝が心わかれて、きれご心のありて、めらんにしたがひて、かなしくわびしきめをみんずるぞし。たへがた事たとへあらんやは」と云。「さて、其事をばいかにしすかるべき」とへば、「更々我も心も及ばず。まして、たすかるべき身はあるべきにあら」とふに、あゆむそらなし。+さて、この軍は先立ち去(い)ぬ。われ、からめて行人に、「あれいかなる軍ぞ」とへば、「え知らぬか。これこ、なんぢに経あらへて書かせた者どもの、その経の功徳より、天も生まれ、極楽にも参り、また、人に生ま帰るも良き身とも生まるべかしが、なぢがその経書奉るとて魚を食ひ、女にも触れて、清(よ)まはるこもなくて、をば女もとに置きて、書き奉りたれその功徳のかなはずて、かう武身に生まれて、なぢを妬(ね)がりて、「呼び給はらん。その仇(あ)報ぜん」と申せば、この度(たび)は道理にて、召さるべきにあらねども、この愁へによりて召さるるなり」とふに、身も切るやうに、心もみ凍りて、これを聞くに、死ぬべき心地す
  
-又行ば大なる川あり。その水みれ、こくすりたる墨の色て流たり。「あやしき水の色哉」て、「これいかなる水なれば、墨の色なるぞ」とへば、「しらずやこれこ汝が書奉たる法花経かく流るるよ」いふそれはいかく川にてはながるるぞ」とふ、「心のよく誠をいたして、書たてまつりた経は、さながら王宮に納られぬ書奉るやうに心きなく、身けがらはし書奉た経は、ひろ野にすて置たれば、その墨の雨れて、かく川にて流也。此川、汝が書奉りた経の墨の川なり」とふに、いとどおともおろか也+「さてわれをばいかせんとて、かく申すぞ」とへば、「愚かにも問ふかな。その持りつ太刀・刀にて、なんぢが身をば、まづ二百に切り裂きて、お一切れづつ取りてん。その二百の切に、なんぢが心も分かれ切れごとに心のありて、せめられんにたがひて、かなし、わびしき目を見んずぞかし耐へがたきこと、たとへんかたあんや」と言ふ。「さて、そのことをば、いかにしてか助か」と言へば、「さらさらに、わも心も及ばず。まして、かるべき身べきにあらず」とふに、歩むらなし。
  
-の事は、いかにしてか助かべき事あ。をしへて助給へ」と泣々いへば、「いとおしけれども、よろしき罪なこそすかべきたをもかまへめれは心もをよび口にてものぶべきやうもなき罪なれば、がせん」とふに、ともかきもふべき方もなうて、程もおそろしげなる、はしりあひて、「をそくいまいる」といましめいへば、それをききて、さげたてて、いてまい+また行けば、大きなる川あり。その水を見れば、濃く磨りたる墨の色にて流れたり。あやしき水の色かな」と見、「は、いか水なれば、墨の色な」とへば、「ずや。これこそ、なんぢが書き奉りたる法華経の墨の、く流るるよ」と言ふ「それは、いかなれば、かく川にては流るるぞ」とふに、「心のよく誠をたして、書き奉りたる経はがら王宮に納められぬ。なんぢが書き奉りたやうに心汚なく身けがらはし書き奉たる経は広き野に捨置きたれば、その墨の雨に濡れて、かく川に流るなり。この川は、なんぢが書き奉りたる経の、墨の川なり」と言ふに、いとど恐しともおろかなり。
  
-大なる門に我やうに引られ又、くびかしなどいふ物をはげられ、ゆひらめられ、たがたげなるめどもみたるものども数もしら十方より出たり。あつりてく入みちたり。門より見入れば、あひたりつる軍共、目をいか、しめづをして、我をみつけて、「くいてこかし」と思たる気色にて、まよふをみるに、いとど土もふまれず+「さてもこのことは、してか助かるべきことある。教へ助け給」と泣く泣く言へば、「いとほしけれども、よろき罪なばこそは助かるべ方をもかへめ。これは心も及び、口ても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」と言ふに、ともくも言ふべき方もなうて行くほども、恐る者、走合ひて、「率()参る」と戒め言へば、それを聞きて、さげたてて率て参りぬ
  
-「さてもさても侍らんずる」とへばひかへたる物「『四巻経書奉ん』といふ願をおこせ」とみそかいへば、いま門入程に「此咎は四巻経き供養してはん」と発しつ+大きなる門にわがやうに引き張られまた、首枷(くびかし)などふ物をはけられてひからめられて、耐げな目ども見たる者どもの、数も知ず、十方より出で来たり。集りて、門所なく入り満ちたり。門より見入れば、逢ひたりつる軍(いくさ)ども、目をいからかし、舌なめづりをして、われを見付けて、「とく率て来(こ)」と思ひたる気色にて、立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず
  
-さて、入りて、庁の前引すへつ。事沙汰する人、「かれは敏行か」とへば、「さに侍り」と此つきたる物こたふ。愁ども頻なる物をなど遅はまりつるぞ」とへば、「召捕たるまま、とどこほりなくいりて候」といふ。「娑婆世界て、な事かせし」ととはるれば、「仕たる事もなし。人あつらへにしたひて法花を二百部侍つる」とこたふ。+さていかし侍らんとする」とへば、そのひかへたる者、『四巻経((金光明経))書き奉らん』とふ願をおこせ」とみそかに言へば、いま入るほどに、「咎(と)は四巻経書き供養しあがはん」と願をおこしつ
  
-それをききて、「汝はもとうけたる所の命は、いましばらくあるべけれども経書たてまりしけがらはしく清らで書たるが、うれへのてからめられぬすみやかにうれ申ものどもにいだたびて、かれらが思のままにせさすべ也」とあるときに、あ軍ど、悦べる気色にて、うけとらんとする時、わななくわななく、「四巻経かき供養せんと申願さぶらふを、その事をんいまだとげ候はぬに、めされさぶらひぬれば、此罪をも、いとどあらがふかた候ぬなり」と申せば、このさききおろきて、「さる事やはある。まとならば、不便なりける事哉。丁を引みよ」といへば、又人、大なる文を取出て、ひくひくみるに、我せし事共を一事もおさずしけたり。中に罪事のみて、功徳の事一もなし+て、入りて前に引き据ゑ沙汰する人かれは敏行か」と問ば、「さに侍り」と、こ者答ふ「愁へども頻(しき)るものを、など遅くはつるぞ」と言へば、「召し捕りたるままどこほりく率て参りて候ふ」と言ふ。「娑婆世界にて、何事かせし問はれば、「仕(かまつ)たることもなしのあつらへにしたがひて、法華経を二百部、書き奉りて侍りつる」と答ふ
  
-この門入つるにおこしつる願なれば、おくてに注されにけり。文引てて、いまはとするに、「さる侍り。此おくにこそしるされて侍れ」と申上ければ、「さてはいと不便の事也。このたびのいとまをばゆるしたびて、その願遂させて、ともかくもあるべき事也」と定られければ、この目をいからかして、「をとくん」と手をねぶりつる軍失にけり。「たしかに娑婆世界に帰て、その願をかならず遂させよ」とてゆるさるるおもに、かへりにけり。+それを聞きて、「なんぢは、もと受けたるところの命は、いましばらくあるべけれども、その経書き奉りしことの、けがらはしく、清からで書きたるが、愁への出で来て、からめられぬるなり。すみやかに愁へ申す者どもに出だし賜びて、かれらが思ひのままにせさすべきなり」とあるときに、ありつる軍ども、悦べる気色にて、受け取らんとする時、わななくわななく、「『四巻経書き供養せん』と申す願の候ふを、そのことをなん、いまだ遂げ候はぬに、召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふかた候はぬなり」と申せば、この沙汰する人、聞き驚きて、「さることやはある。まことならば、不便(ふびん)なりけることかな。丁を引きて見よ」と言へば、また人、大きなる文を取り出でて、引く引く見るに、わがせしことどもを、一事も落さず注(しる)し付けたり。中に罪のことのみありて、功徳のこと一つもなし。 
 + 
 +この門入つるほどにおこしつる願なれば、てに注(しる)されにけり。文引き果てて、はとするほどに、「さること侍り。この奥にこそされて侍れ」と申ければ、「さてはいと不便のことなり。このたびの暇(いとま)をばしたびて、その願させて、ともかくもあるべきことなり」と定られければ、この目をいからかして、「われをとくん」と手をねぶりつる軍ども、にけり。「たしかに娑婆世界に帰て、その願をず遂させよ」とて、許さるるとほどに、りにけり。
  
 妻子なきあひて有ける、二日といふに、夢のさめたる心ちして、目を見あげたりければ、「いき帰たり」とて、悦て、湯のませんどするにぞ、「さは、我は死たりけるにこそありけれ」と心えてかんがへられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にてゆるされつる事などを、あきらかなる鏡に向たらんやうにおぼえければ、いつしか我力付て、「清まはりて、心きよく四巻経書供養し奉ん」と思けり。 妻子なきあひて有ける、二日といふに、夢のさめたる心ちして、目を見あげたりければ、「いき帰たり」とて、悦て、湯のませんどするにぞ、「さは、我は死たりけるにこそありけれ」と心えてかんがへられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にてゆるされつる事などを、あきらかなる鏡に向たらんやうにおぼえければ、いつしか我力付て、「清まはりて、心きよく四巻経書供養し奉ん」と思けり。
  
-やうやう日へ、過て、例の様に心にければ、いつしか四巻経書たてまつるべき紙、経師に打がせ、鎅かけさせて、「書奉ん」と思けるが、もとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、「女のもとに行、あの女のけしやうし、いかでよき哥よまん」など思けるに、いとまもなくて、はかなく年月過て、経をも書たてまつらで、このうけたりける齢のかりにや成にけんつゐに失にけり+やうやう日ごろ経()ころて、例の様に心なりにければ、いつしか四巻経書き奉るべき紙、経師に打ち継がせ、鎅(け)かけさせて、「書ん」と思けるが、なほ、もとの心の色めかしう、経仏の方に心のらざりければ、「この女のもとに行、あの女の懸想(けしやう)し、いかでよき歌詠まん」など思けるほどに、暇(いとま)もなくて、はかなく年月過て、経をも書き奉らで、この受けりける齢(よはひ)の限りにやなりにけん、つひに失せにけり。 
 + 
 +その後、一二年ばかり隔て、紀友則といふ歌詠みの夢に見えけるやう、この敏行とおぼしき者に会ひたれば、敏行とは思へども、様(さ)・形たとふべき方もなく、あさましく、恐しう、ゆゆしげにて、うつにも語りしことを言ひて、「『四巻経を書き奉らん』といふ願によりて、暫(しばら)くの命を助けて返されたりしかども、なほ、心の愚かに怠りて、その経を書かずして、つひに失せにし罪によりて、たとふべき方もなき苦を受けてなんあるを、もし、あはれと思ひ給はば、その料(れう)の紙はいまだあるらん、その紙尋ね取りて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書き供養をさせて給べ」と言ひて、大きなる声を上げて泣き叫ぶと見て、汗水になりておどろきて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見つる僧のもとへ行きたれば、僧見付けて、「嬉しきことかな。『ただ今、人を参らせん。みづからにても参りて申さん』と思ふ心のありつるに、かくおはしましたることの嬉しさ」と言へば、まづ、わが見つる夢をば語らで、「何事ぞ」と問へば、「今宵の夢に、故敏行朝臣の見え給ひつるなり。『四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにし、その罪によりて、極まりなき苦を受くるを、その料紙、御前のもとになんあらん、その紙尋ね取りて、四巻経、書き供養し奉れ。ことのやうは、御前に問ひ奉れ』とありつる。大きなる声を放ちて、叫び泣き給ふと見つる」と語るに、あはれなること、おろかならず。 
 + 
 +さし向ひて、さめざめと二人泣きて、「われもしかじか夢を見て、その紙を尋ね取りて、ここに持ちて侍り」と言ひて取らするに、いみじうあはれがりて、この僧、まことをいたして、手づからみづから書き供養し奉りて後、また二人が夢に、この功徳によりて、耐へがたき苦、少しまぬがれたるよし、心地よげにて、顔も始め見しには替はりて、よかりけりとなん見けり。 
 + 
 +===== 翻刻 ===== 
 + 
 +  これも今はむかし敏行といふ哥よみは手をよく書けれはこれ 
 +  かれかいふにしたかひて法花経を二百部斗書たてまつりたり 
 +  けりかかる程に俄に死けり我はしぬるそとも思はぬに俄にからめて 
 +  引はりて出行は我斗の人を大やけと申ともかくせさせ給へきか心えぬ/117オy237 
 + 
 +  わさかなと思てからめて行人にこれはいかなる事そ何事のあやまちに 
 +  よりかくはかりのめをはみるそととへはいさ我はしらす慥にめしてこと 
 +  仰を承ていてまいるなりそこは法花経やかきたてまつりたる 
 +  ととへはしかしか書たてまつりたりといへは我ためにはいくらか書たるとと 
 +  へは我ためとも侍らすたた人のかかすれは二百斗かきたるらんと 
 +  おほゆるといへはその事のうれへいてきてさたのあらんするにこそ 
 +  あめれと斗いひて又こと事もいはて行程にあさましく人のむかふへくも 
 +  なくおそろしといへはおろかなる物の眼をみれはいな光のやうにひら 
 +  めき口はほむらなとのやうにおそろしき気色したる軍の鎧冑 
 +  きてえもいはぬ馬に乗つつきて二百人斗逢たりみるに肝まとひ 
 +  たうれふしぬへき心ちすれとも我にもあらす引立られて行さて此軍 
 +  はさきたちていぬ我からめて行人にあれはいかなる軍そととへはえしらぬか 
 +  これこそ汝に経あつらへてかかせたる物共のその経の功徳によりて天にもむ/117ウy238 
 + 
 +  まれ極楽にもまいり又人にむまれ帰るともよき身ともむまるへ 
 +  かりしか汝かその経書たてまつるとて魚をもくひ女にもふれて 
 +  きよまはる事もなくて心をは女のもとに置て書たてまつりたれは其 
 +  功徳のかなはすしてかくいかう武き身にむまれて汝をねたかりて 
 +  よひて給はらんそのあた報せんとうれへ申せは此度は道理にてめさる 
 +  へきたひにあらねともこの愁によりてめさるる也といふに身もきるやうに 
 +  心もしみこほりてこれをきくにしぬへき心ちすさて我をはいかにせ 
 +  んとてかくは申そととへはおろかにもとふ哉その持たりつる太刀刀にて 
 +  汝か身をは先二百にきりさきて各一きれつつとりてんとすその二 
 +  百のきれに汝か心もわかれてきれことに心のありてせためられんに 
 +  したかひてかなしくわひしきめをみんするそかしたへかたき事 
 +  たとへんかたあらんやはと云さて其事をはいかにしてかたすかるへきといへは 
 +  更々我も心も及はすましてたすかるへき身はあるへきにあらすといふに/118オy239 
 + 
 +  あゆむそらなし又行は大なる川ありその水をみれはこくすりたる 
 +  墨の色にて流たりあやしき水の色哉とみてこれはいかなる水 
 +  なれは墨の色なるそととへはしらすやこれこそ汝か書奉たる法花経の 
 +  墨のかく流るるよといふそれはいかなれはかく川にてはなかるるそととふに 
 +  心のよく誠をいたして清く書たてまつりたる経はさなから王宮に 
 +  納られぬ汝か書奉たるやうに心きたなく身けからはしうて書奉たる経は 
 +  ひろき野にすて置たれはその墨の雨にぬれてかく川にて流る 
 +  也此川は汝か書奉りたる経の墨の川なりといふにいととおそろし 
 +  ともおろか也さてもこの事はいかにしてか助かるへき事あるをしへて 
 +  助給へと泣々いへはいとおしけれともよろしき罪ならはこそはたすかるへ 
 +  きかたをもかまへめこれは心もをよひ口にてものふへきやうもなき罪 
 +  なれはいかかせんといふにともかくもいふへき方もなうていく程もおそろし 
 +  けなる物はしりあひてをそくいてまいるといましめいへはそれをききて/118ウy240 
 + 
 +  さけたてていてまいりぬ大なる門に我やうに引はられ又くひかし 
 +  なといふ物をはけられてゆひからめられてたへかたけなるめともみ 
 +  たるものともの数もしらす十方より出きたりあつまりて門に所なく 
 +  入みちたり門より見入れはあひたりつる軍共目をいからかししたな 
 +  めつりをして我をみつけてとくいてこかしと思たる気色にて立さ 
 +  まよふをみるにいとと土もふまれすさてもさてもいかにし侍らんとするといへは 
 +  其ひかへたる物四巻経書奉らんといふ願をおこせとみそかにいへはいま 
 +  門入程に此咎は四巻経かき供養してあかはんといふ願を発しつ 
 +  さて入りて庁の前に引すへつ事沙汰する人かれは敏行かととへはさに 
 +  侍りと此つきたる物こたふ愁とも頻なる物をなと遅はまいりつるそ 
 +  といへは召捕たるままととこほりなくいてまいりて候といふ娑婆世 
 +  界にてなに事かせしととはるれは仕たる事もなし人のあつらへにした 
 +  かひて法花経を二百部書奉て侍つるとこたふそれをききて汝/119オy241 
 + 
 +  はもとうけたる所の命はいましはらくあるへけれともその経書たて 
 +  まつりし事のけからはしく清からて書たるかうれへの出きてからめ 
 +  られぬる也すみやかにうれへ申ものともにいたしたひてかれらか思 
 +  のままにせさすへき也とあるときにありつる軍とも悦へる気 
 +  色にてうけとらんとする時わななくわななく四巻経かき供養せん 
 +  と申願のさふらふをその事をなんいまたとけ候はぬにめされさ 
 +  ふらひぬれは此罪をもくいととあらかふかた候はぬなりと申せは 
 +  このさたする人ききおとろきてさる事やはあるまことならは不 
 +  便なりける事哉丁を引てみよといへは又人大なる文を取出て 
 +  ひくひくみるに我せし事共を一事もおとさすしるしつけたり 
 +  中に罪の事のみありて功徳の事一もなしこの門入つる程に 
 +  おこしつる願なれはおくのはてに注されにけり文引はてていま 
 +  はとする程にさる事侍り此おくにこそしるされて侍れと申/119ウy242 
 + 
 +  上けれはさてはいと不便の事也このたひのいとまをはゆるし 
 +  たひてその願遂させてともかくもあるへき事也と定られけれは 
 +  この目をいからかして我をとくえんと手をねふりつる軍共 
 +  失にけりたしかに娑婆世界に帰てその願をかならす遂させ 
 +  よとてゆるさるるとおもふ程にいきかへりにけり妻子なきあひて 
 +  有ける二日といふに夢のさめたる心ちして目を見あけたりけれは 
 +  いき帰たりとて悦て湯のませんとするにそさは我は死たり 
 +  けるにこそありけれと心えてかんかへられつる事ともありつる有様願 
 +  をおこしてその力にてゆるされつる事なとをあきらかなる鏡に 
 +  向たらんやうにおほえけれはいつしか我力付て清まはりて心き 
 +  よく四巻経書供養し奉んと思けりやうやう日比へ比過て例の 
 +  様に心ちも成にけれはいつしか四巻経書たてまつるへき紙経師に打 
 +  つかせ鎅かけさせて書奉んと思けるか猶もとの心の色めかしう経/120オy243 
 + 
 +  仏の方に心のいたらさりけれは此女のもとに行あの女のけしやうし 
 +  いかてよき哥よまんなと思ける程にいとまもなくてはかなく年月 
 +  過て経をも書たてまつらてこのうけたりける齢のかりにや成に 
 +  けんつゐに失にけり其後一二年斗へたてて紀友則といふ哥読 
 +  の夢にみえけるやう此敏行とおほしき物にあひたれは敏行とは 
 +  思へともさまかたちたとふへき方もなくあさましくおそろしうゆゆし 
 +  けにてうつつにもかたりし事をいひて四巻経を書奉らんと云願に 
 +  よりて暫の命をたすけて返されたりしかとも猶心のおろかに 
 +  おこたりてその経をかかすしてつゐに失にし罪によりてたとふ 
 +  へきかたもなき苦をうけてなんあるをもしあはれと思給ははその 
 +  れうの紙はいまたあるらんその紙尋とりて三井寺にそれかしと 
 +  いふ僧にあつらへて書供養をさせてたへといひて大なる声を 
 +  あけてなきさけふとみて汗水になりておとろきてあくるやおそき/120ウy244
  
-其後、一二年斗へだてて、紀友則といふ哥読の夢にみえけるやう、此敏行とおぼしき物にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方もなく、あさましくおそろしうゆゆしげにて、うつつにもかたりし事をいひて、「四巻経を書奉らんと云願によりて、暫の命をたすけて返されたりしかども、猶心のおろかにおこたりて、その経をかかずして、つゐに失にし罪によりて、たとふべきかたもなき苦をうけてなんあるを、もしあはれと思給はば、そのれうの紙はいまだあるらん、その紙尋とりて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書供養をさせてたべ」といひて、大なる声をあげてなきさけぶとみて、汗水になりておどろきて、あくるやおそきその料紙尋とりてて三井寺に行て夢にみつる僧のもとへ行たれば、僧見付て、「うれしき事かないま人をまいらせん。『からにてもまいりて申さんとおもふ心のありつるにかくおはしましたる事のうれしさといへば、我みつる夢をかた、「何事ぞ」ととへば、「今宵の夢に故敏行朝臣のみえ給つる也四巻経書たてまつるかりしを心のおこたりにえかき供養したてまつらなりにしその罪によりてきはまりなき苦をうくるをその料紙御前のもとになんあらんその紙たね取て四巻経書供養したてまつれ事のやうは御前に問たてまつれとありつる大なるこゑをはなちてさけなき給とみつるとかたるにあはれなる事おろかならず。+  とその料紙尋とりてやて三井寺に行て夢にみつる僧の 
 +  もとへ行たれ僧見付てうれしき事かなたいま人をまいら 
 +  せんみからにてもまいりて申さんとおもふ心のありつるに 
 +  かくおはしましたる事のうれしさといへ我みつる夢 
 +  かたて何事ととへ今宵の夢に故敏行朝臣のみえ 
 +  給つる也四巻経書たてまつるかりしを心のおこたりにえかき供 
 +  養したてまつらなりにしその罪によりてきはまりなき苦を 
 +  うくるをその料紙御前のもとになんあらんその紙たね取 
 +  て四巻経書供養したてまつれ事のやうは御前に問たて 
 +  まつれとありつる大なるこゑをはなちてさけなき給と 
 +  みつるとかたるにあはれなる事おろかならすさしむかひて 
 +  さめさめとふたりなきて我もしかしか夢をみてその紙 
 +  を尋とりてここにもちて侍りといひてとらするにいみしうあはれ/121オy245
  
-さしむひて、さめざめとふたりなきて、「我もしかじか夢をみて、その紙を尋とりて、ここにもちて侍り」といひてとらするに、いみじうあはれがりてこの僧まことをいたしてからみから書供養したてまつりて後又ふたり夢にこの功徳によりてたへたき苦すこしまぬれたるよし心ちよにて顔もはめみしには替てよかりけりとなんみけり+  かりてこの僧まことをいたして手からみから書供養し 
 +  たてまつりて後又ふたり夢にこの功徳によりてたへ 
 +  かたき苦すこしまぬれたるよし心ちよにて顔もは 
 +  みしには替てよかりけりとなんみけり/121ウy246
  
text/yomeiuji/uji102.txt · 最終更新: 2018/10/19 17:05 by Satoshi Nakagawa